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拙著『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)を、どうか参考にしてください。
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ひふみ
よいむなや
こともちろらね
しきる
ゆゐつわね
そをたはくめか
うおえ
にさりへて
のますあせゑほ れけん
「ひふみ歌」は、「いろは歌」と同じように、47文字が1字づつの歌です。「3・5・7」の構成になっています。
最初の、「ひ・ふ・み よ・い・む・な・や こ・と」までは、理解できますが、その後は、さっぱり分かりません。
調べてみると、様々な解釈があります。とにかく、「ありがたい」祝詞であるようです。
この祝詞は奈良県天理市布留町の石上神宮で毎朝唱えられています。石上神宮は、最も古い神社の一つで、物部氏と関係があるようです。
一説では、天照大神が岩戸に籠った時に、この祝詞が詠まれ、アメノウズメがセクシーダンスをした、ということです。
なお、昭和20年代頃までは、食事の際、「ひ・ふ・み」と数えながら、食物を47回、噛んで食べると健康に良い、と言われて、私も実行した経験があります。
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2024/3/11(月)開場: 18:30 / 開始: 19:00 / 終了: 21:00
セシオン杉並 ホール
メトロ丸の内線 東高円寺駅徒歩5分
一般:1,500円、学生1,000円
]]>➀土地を賃貸で借りていた。突然、土地所有者が変更になった。
?店舗内の公衆電話の契約について。
?国民健康保険料の軽減
?生活保護(視力障害者)
?不動産の抵当権
?脳梗塞のため労働できなくなった。
?親族がないため友人葬
?借地の更新
?サラ金の返済ができない。
?多重債務、サラ金3社合計約500万円
?債務約115万円が他へ譲渡された。
?相続
?多重債務、サービサーへ移った。
?都営住宅
?年金月19万円、家賃月12万円
?特別養護老人ホーム入所希望
?アパート家賃収入月30万円、アパート建設費で3か所へ月29万円の支払い。
?借金返済のため土地を売る予定だが、売っても全額返済にならない。
?障害者世帯の世帯分離
?家族の一人が障害者施設に入所しているが、そこを出なくてはいけなくなった。
㉑銀行から融資を受けて返済中。数か月後には返済できなくなる。
㉒サラ金多重債務
㉓銀行3社の借金残高が8000万円、自宅は2300万円で売却する。
㉔7社の多重債務。残高1800万円。
㉕サラ金多重債務
㉖アパートの家賃、賃貸名義と違う、と言われた。
㉗母が8000万円で土地を買ったが、死亡した。母の他の借金、母名義の不動産、何がどうなっているか不明。
㉘遺言状
㉙相続
㉚特別養護老人ホーム
㉛連帯保証人
㉜サラ金多重債務
㉝近隣騒音
㉞相続
㉟不動産の売却
㊱離婚
㊲サラ金多重債務4社で300万円
㊳外国人登録、パスポート
㊴保育園
㊵障害児
㊶特別養護老人ホーム
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東海姫氏國 東海の姫氏国では
百世代天工 百世にわたって天工に代わり
右司為扶翼 右司(臣下)が、扶翼を為し(国政を補佐し)
衛主建元功 衛主(宰相)が元功(功績)を建てた。
初興治法事 初めは法治の事(体制)を興し
終成祭祖宗 後には祖先を祭ることを成した。
本枝周天壌 天子と臣下は、天地にあまねく
君臣定終始 君臣は終始(秩序)が定まっていた。
谷塡田孫走 (しかし)谷が埋まり、田孫が走り
魚膾生羽翔 膾(なます)に羽根が生えて飛ぶ。
葛後干戈動 葛(くず)が長く伸びた後、干戈(かんか、たてほこ)が動く
中微子孫昌 中間層がわずかとなり、(下層の)子孫が盛んになる。
白龍游失水 白龍は、泳いで水を失い
窘急寄故城 急に苦しみ、故城に(身を)寄せる
黄鶏代人食 黄色い鶏が、人に代わって食べ
黒鼠喰牛腸 黒い鼠が、牛の腸を喰らった。
丹水流盡後 丹水は、流れつくし、その後
天命在三公 天命は三公にうつった。
百王流畢竭 百王 ,流れ終わり尽きて
猿犬稱英雄 猿や犬が英雄と称した。
星流飛野外 星が流れ野外に飛び
鐘鼓喧國中 (戦いの)鐘や鼓が国中にかまびした。
青丘興赤土 青丘と赤土は、
茫茫遂為空 茫々として遂に空(無)となった。
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漢詩の最高峰は唐時代の李白(701〜762)と杜甫(712〜770)です。李白は大酒飲みで、「酒仙」と呼ばれた。
杜甫は、長安で有名な8人の酒豪を「飲中八仙歌」を詠んだ。その中の一節に「李白一斗詩百篇」とある。李白は一斗飲めば、百編の詩を生んだのである。現在の「1斗(と)」は「10升(しょう)」である。1升は1.8ℓである。「1升は10合」であるから、1斗は100合となる。江戸時代の川柳に、「李太白 一合づつに 詩を作り」とある。計算は間違いないが、唐時代の「斗」と「升」は同じような量であったようだ。つまり、1升ビン1本(1.8ℓ)で100の詩を作った。作られた詩の出来栄えを問わないならば、そう難しくはないだろう。
李白の酒の歌は「山中与幽人対酌」(さんちゅう・にて・ゆうじん・と・たいしゃく・す)という七言絶句が有名です。
【原文】
両人対酌山花開
一杯一杯復一杯
我酔欲眠卿且去
明朝有意抱琴来
【読み下し文】
両人(李白と幽人)対酌 山花開く
一杯一杯 復(また)一杯
我酔うて眠らんと欲す 卿しばらく去れ
明朝意あらば 琴を抱いて来たれ
【現代語訳】
二人がさしむかいで飲んでいると、山の花が咲く
一杯、一杯、また一杯
私は酔って眠くなった。君よ、まあまあ帰りなさいよ
明日の朝、その気になれば、琴を抱いて来なさいよ
解説は省略しますが、いかにもお酒が大好きな観じが、よく分かります。
李白は放浪しつつ才能を磨いた。40歳を過ぎて、その抜群の才能によって宮廷に仕えた。しかし、酒ゆえに礼節に欠け、2〜3年で宮廷を去るはめになった。『飲中八仙歌』に、天子が呼んでも酔っぱらって天子の船に乗らない、それを謝りもせず、私は酒の中の仙人だから水の中には入らない、と屁理屈を述べる始末。
やっぱり、飲みすぎは良くない。酒は、ほどほどに。李白の真似は断じてよろしくない。
それで思い出すのが、江戸時代後期の儒学者・漢詩人である菅茶人(かん・ちゃざん、1748〜1827)の五言絶句「酒」です。菅茶人は備後国(広島県)福山で活躍した人物です。
【原文】
一杯人呑酒
三杯酒呑人
不知是誰語
吾輩可書紳
【読み下し文】
一杯、人酒を呑む
三杯、酒人を呑む
知らず、是誰の語
吾が輩(ともがら)、紳(しん)に書す可(べ)し
【現代語訳】
一杯目は、人が酒を呑む
三杯目は、酒が人を呑む
誰が言ったのか知らないが、(名言である。)
われわれは、これを書きつけるべきである(戒めにすべきである。)
これも解説を省略しますが、おそらく、李白の「一杯一杯復一杯」を意識しての漢詩でしょう。しかし、どうも、お説教の臭いがプンプンします。やはり、詩となると、李白の酒の詩ですなぁ〜。
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都政新報は、東京都・23区・都内の市町村の行政専門誌で、主に公務員・議員が購読しています。都内最大の行政専門誌です。発行部数は2万部。
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➀危急時遺言
?少人数私募債
?個人事業者、債務超過・多重債務。住宅ローン2300万円、サラ金などカード13社460万円、税金滞納50万円、国保料滞納42万円。
?生活保護
?住宅トーン破綻、多重債務。住宅ローン3500万円、国金260万円、都市銀行2社230万円、JCBカード280万円、日本信販30万円、車ローン30万円、税金滞納260万円。
?東京簡易裁判所から調停調書が届く。日本信販との調停。
?家賃不払いにため、弁護士から通知書が届く。
?多重債務。銀行2社900万円、サラ金5社42万円、日本信販150万円、親戚1000万円、友人(6人)1000万円、国税滞納220万円。
?東京簡易裁判所から支払督促が届く。東芝ファイナンス?
?墓苑・墓石の金額。最初の話と違う。
?東京簡易裁判所への特定調停申立書。相手、三井住友カード?
?離婚した元夫が、元妻のカードで借金返済。
?母子家庭(子ども2人)の住居相談
?多重債務。サラ金4社へ毎月5万8000円支払っている。
?特別養護老人ホーム入所希望
?多重債務(夫婦)。住宅ローン残1900万円。サラ金など11社440万円。
?多重債務。銀行3社80万円、丸井30万円。
?多重債務。丸井19万円、サラ金4社260万円。
?多重債務。サラ金2社を含め計4社から督促状が次々に届く。
?債務超過と会社分割
㉑多重債務。住宅ローン破綻回避のため他の金融機関3社から借金。
㉒多重債務。住宅ローン2200万円。他の金融機関600万円。
㉓中小企業債務超過。借金残額5億0120万円。
㉔成年後見人
㉕相続
㉖債務がサービサーへ回った。
㉗投資用マンションをローンで購入したが、失敗。
㉘多重債務。サラ金も含め残額490万円。
㉙相続。資産内容は不動産と借金。
㉚債務と時効
㉛小企業の実質的破綻。残った債務をどうするか。
㉜貸金請求の内容証明の書き方
㉝相続
㉞母子家庭の諸手当
㉟住宅ローンの減額交渉
㊱住宅ローンをどうするか。
㊲多重債務。サラ金など8社残額363万円、毎月14万3000円返済。
㊳サービサーから連絡が来た。
㊴地方税滞納で東京都から差押調書が届いた。
㊵相続
㊶多重債務と生活保護
㊷多重債務。住宅ローン残額720万円、銀行2社810万円、サラ金など7社から460万円。同居の母がサラ金3社から80万円。別居の妻がサラ金から145万円。
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➀某特別養護老人ホームへの入園申込の書類一式。入所希望者の子供が、どう書いてよいのか分からないので、相談されました。
?多重債務の相談書類。ファーストクレジット1,600万円、サラ金6社から計300万円、親戚から450万円。それに対する私の処方箋。
?生活保護の申請。
?多重債務の相談書類。住宅ローン1、000万円、父母から1,000万円、友人から300万円、銀行50万円、日本信販50万円。
?多重債務の相談書類。丸井残25万円、日本信販48万円、ジャックス3,000万円、住宅ローン残2200万円、UFJカード40万円、サラ金3社残72万円、友人130万円。
?多重債務の相談書類。夫婦で、サラ金4社160万円、丸井70万円。
?多重債務の相談書類。サラ金など13社で毎月50万円の支払い。
?e-テレ媒体契約。使わない機械を契約してしまった。
?店舗賃貸借契約。
?多重債務の相談書類。サラ金など15社。毎月37万返済。
?生活困難(夫婦)で、国民健康保険料を滞納。
?各種金融機関(年金担保を含む)から、親子で約600万円の借金残高。
?年金相談。2か月で32万2566円支給。
?相続放棄書類。
?母が高齢のため病気で入院。母は銀行からの借金が300万円。
?叔母が要介護2。身寄りは私だけ。
?多重債務で返済が滞り催告書が届いた。
?子供5人への不動産を均等に贈与。
?住宅ローン破綻。
?知的障害者施設へ就職したい。
㉑自宅の他2か所に不動産を所有する夫が急死。かなりの借金もある。
㉒事業で7000万円の借金残額。
㉓多重債務7社で530万円、他に住宅ローン残高700万円。
㉔家賃滞納により届いた「家賃債権譲渡通知書」
㉕生活保護
㉖杉並区女性福祉資金の未払いにより届いた連帯保証人への督促状
㉗検察庁刑事部からの呼び出し状
㉘新宿労働基準監督署から届いた書類
㉙子が母親に暴力を振るう。母は家を出てアパート暮らし。母名義の家はどうなるか。
㉚多重債務で6社から約400万円。
㉛相続で不動産を分割するが、「すみ切り」をどうするか。
㉜小企業の資金繰り
㉝埼玉県の保育園廃業問題
㉞債務過多の小企業
㉟小企業の事業不振
㊱小企業で債務残高9億円、社員190人
㊲小企業で、税金滞納1500万円、債務が商工ファンドを含め約2000万円
㊳自宅住宅ローン残額2000万円、投資用ワンルームマンションローン3000万円、他に40万円。
㊴多重債務(夫婦)。銀行200万円、カード6社400万円。
㊵小企業。債務残高9500万円
㊶レンタルの機会が不具合。でも、支払い請求は来る、解約も応じてくれない。
㊷多重債務。サラ金など7社350万円
㊸多重債務。住宅ローン残1100万円、友人から300万円、国金300万円。
㊹相続。遺言について。
㊺夫婦で年金1カ月18万円。賃貸アパートで更新しない、と言われた。
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赤染衛門の法華経28品和歌
太田哲二
赤染衛門は王朝最盛期(藤原道長の時代)に、和泉式部と並ぶ女性歌人です。
「赤染衛門の法華経28品和歌」は、藤原道長が法華経普及のために指示して出来上がったと推測されます。
「品(ほん)」とは、今の「章」のことで、「序品第一」とは「第一章 序」という意味です。
序品第一
いにしえの たへなる法を ときければ いまのひかりも さがとこそみれ
現代語訳:過去の非常にすぐれた教えを(仏様は)説かれたので、今(眉間から)の光も、めでたいきざしとお見受けします。
参考
➀「さが」は、きざし、めでたいしるし。「釈迦」との掛詞になっている。
?「いにしえ」と「いま」がセットになっている。
方便品第二
ときおかで いりなましかば ふたつなく みつなきのりを たれひろめまし
現代語訳:(もし仏様が)説き残さないで、入滅したならば、「二乗も三乗もない。一乗あるのみ」という教えを、誰が広められようか。
参考
「舎利弗、此の如きは皆一佛乗の一切種智を得せしめんが為の故なり。舎利弗、十方世界の中には尚お二乗なし。何に況や
( いわんや ) 三あらずんや」
譬喩品第三
もゆる火の 家をいでてぞ さとりぬる みつの車は ひとつなりけり
現代語訳:火事の家を出て、悟りました。三車(三乗方便)は 一乗でした。
参考
法華経には7つの譬え話(法華七譬)があり、「三車火宅」の譬えは、最初のたとえ話。
信解品第四
おやとだに しらでまどふが かなしさに このたからをも ゆづりつるかな
現代語訳:(私が)親だと知らないで惑う(我が子)が悲しく、この宝を 譲ったのでした。
参考:
➀法華七譬の第2番目のたとえ話「長者窮子」たとえ話。
?「この」は「此の」と「子の」の掛詞。「おや(親)」と「こ(子)」がセットになっている。
薬草喩品第五
法のあめは くさ木もわかで そそげども おのがじしこそ うけまさりけれ
現代語訳:法雨は、草も気も分け隔てなく降るのだけれども、各自それぞれの種類があるので、それぞれが(法雨を)受けて(悟りを)深くするものであるなあ。
参考
法華七譬の第三番目のたとえ話「三草二木」です。法雨は平等に注ぐけれども、人々の受けとめ方が違うということです。平等だけれど差別がある、多くの人が悩むところです。
授記品第六
つぎつぎの 仏におほく つかへてぞ はちすをひらく 身とは成るべき
現代語訳:次から次へと多くの仏に供養してこそ、蓮の花が開くように、悟りを開くのである。
参考
「はちす」とは「蓮」のこと。蜂の巣ではありません。
化城喩品第七
こしらへて かりのやどりに やすめずは さきの道にや なほまどはまし
現代訳語:幻の城をこしらえて、仮の宿で休めなければ、(引き返して)先の道で迷っているでしょう。
参考
法華七譬の第四番目のたとえ話「化城宝処」です。
五百弟子受記品第八
ころもなる 玉ともかけて しらざりき ゆめさめてこそ うれしかりけれ
現代語訳:衣服の裏に縫いつけてある宝珠の存在を 少しも知りませんでした。夢からさめて初めて、(宝珠を見つけ)とてもうれしと思います。
参考
➀法華七譬の第五番目のたとえ話「衣裏宝珠」です。宝珠とは仏の教え、大乗の悟りを意味しています。
?「かけて」は、少しもの意味。「掛けて」「繋けて」と掛詞。「ころも」と「掛けて」は縁語、「玉」と「繋けて」も縁語。
授学無学人記品第九
諸共に さとりをひらく これこそは むかし契りし しるしなりけれ
現代語訳:みんな共に 悟りを開く。このことは、昔、仏と阿難が同時に菩提心を起こしたことの、あかしなのである。
参考
➀阿難は釈迦十大弟子の一人。阿難の生涯は劇画的でとっても面白い。
?有学の阿難と無学の羅睺羅および2000人の参加者に成仏の予言をする場面です。
法師品第十
すみがたき 心しむろに とまらねば のりとくこそぞ まれらなるべき
現代語訳:澄んでない心が、如来の室(大慈悲心)に留まらなければ、法を説くことは、とてもまれなことである。
参考
➀「すみ」は、「澄み」と「住み」の掛詞。
?「むろ」は、如来の室のことで、大慈悲心をいう。
?「まれら」は、「まれ」+「接尾語ら」。めったにないこと。
見宝塔品第十一
大空に たからのたふの あらはれて 法のためにぞ 身をばわけける
現代語訳:大空に宝塔が出現した。これは法華経のための、仏がその分身を現したものであるのだ。
参考
仏が大衆が見守る中、地中より多宝仏を大空に出現させる。仏教が時空を超越することを証明するために、ありえない劇的光景を出現させた。
提婆達多品第十二
わたつみの みやをいでたる 程もなく さはりのほかに なりにけるかな
現代語訳:海中の宮を出るとまもなく 竜女は、何の障害もなく 悟りを得ました。
参考
➀提婆達多品は、悪人(提婆達多)成仏と女人(竜女)成仏を説いている。
?「わたつみ」は、『日本書記』に出てくる海神、転じて海。
?「さはり」、女人には五の障り(障害、支障)ありとされていた。
勧持品第十三
身をかへて 法ををしまん ためにこそ しのびがたきを しのびてもへも
現代語訳:命にかえて法を信じ奉るために、(誹謗されても)忍び難きを忍んでいきましょう。
安楽行品第十四
名をあげて ほめもそしらじ 法をただ おほくもとかじ すくなくもせじ
現代語訳:(仏の教えを説く際には)とりたてて他人を、ほめたり悪口を言わない。法をただ、過不足なく伝えよう。
参考
➀文殊菩薩が「釈迦入滅後、初心者は、どう教えを広めるか」を質問したのに対し、釈迦は、身・口・意・誓願の四つの安楽行を示した。その第二の「口安楽行」です。
?上の句は「褒める・そしる」がセットになり、下の句は「多く・少なく」がセットになっている。
?安楽行品の中には、法華七譬の第六番目のたとえ話「髷中明珠」があります。転輪聖王(武力でなく仏法で世を治める理想の王)は、部下の手柄によって各種の褒美を与えた。しかし、髷(まげ)の中の宝珠だけは、みだりに与えると驚き怪しむので容易に与えなかった。
従地湧出品第十五
いかでかは 子よりも親の わかからん 老いてはわかく なるにや有るらん
現代語訳:どうして子よりも親が若くあることがあろうか。老いて若くなるということがあろうか。
参考
無数の求法者が地の割れ目から出現した。彼らは、大空に浮ぶ宝塔の仏に向かって、「自分達は誰の弟子で、何の因縁で、集まったのか」と質問した。仏は、「すべて自分が教化した」と答えた。それに対して、彼らは疑念を持つ。25歳の青年が100歳の老人を「我が子」と言うようなものだ。この疑念の答が、次の品「如来寿量品第十六」です。
如来寿量品第十六
ありながら 死ぬる気色は 子のために とめしくすりを すかすなりけり
現代語訳:父が生きながら死んだふりをしたのは、子供のために、留めおいた薬を、(子供が薬を飲まないので)なだめて飲ませるためだったのです。
参考
➀前品の疑念に対して仏は、成仏して久遠常住不滅の存在になった、と答えた。ただ、衆生は、如来が入滅しないと恭敬しないので、実には滅せずとも、方便として滅する、と説いた。この方便を説明するのが、法華七譬の第七番目のたとえ話「良医病子」です。
?「良医病子」は、次のような話です。父(良医)が旅に出ている最中に、子供達が毒薬を飲んで病となった。父は帰ってきて良薬を飲まそうとするが、毒の回った子供達はそれも毒薬と思い込み飲もうとしない。父は良薬を留め置いて再び旅に出て、使者に父は死んだと言わせる。その知らせで嘆き悲しむ子供達は、本心を取り戻し良薬を服用し、回復した。
分別功徳品第十七
ほとけにて えたるこふずをかぞへずば ちりばかりだに 知らずあらまし
現代語訳:仏として得た寿命は無限の「劫」であって、それを数えないと、ちりのようにわずかしか数えなくても、仏を知ることはできない。
参考
➀「「こふず」は「劫数」です。「劫」はインドの時間単位で、永遠の時間をいう。
?「阿逸多、若し佛の壽命長遠なるを聞いて、其の言趣を解するあらん。是の人の所得の功徳限量あることなくして、能く如来の無上の慧を起さん」
随喜功徳品第十八
よのなかに みてしたからを えんよりは 法をきくべき ことは増され
現代語訳:世の中に満ちている財宝を得るよりは、法華経を聞くことの方がすぐれている。
参考
金銀財宝よるも法華経の一偈を聞いて随喜する方が増さっている。そう言われても、凡夫は「現実社会を生きていくには、少しは金銀が必要で」と、「法華経の一偈」と「金銀」の二者択一思考に陥ってしまう。
法師功徳品第十九
たもちがたき のりを書き読む むくいには 身ぞ澄みきよき 鏡なりける
現代語訳:心から信仰するのが難しい法華経を、書写したり読経したりする果報は、身が澄み、清い鏡になることです。
参考
六根清浄になる。
常不軽菩薩品第二十
みる人を つねにかろめぬ 心こそ つひに仏の身には 成れりぬれ
現代語訳:(常不軽菩薩は)出会う人を、いつも拝んで軽んじない心がありました。その心ゆえに、ついに成仏したのでした。
参考
「つねにかろめぬ」は、「常不軽」の訓読みです。
如来神力品第二十一
空までに いたれる舌の まことをば のりをたもたん 人ぞしるべき
現代語訳:梵天まで至った舌の真実は、法華経を護持する人だけが知ることができるのでしょう。
参考
➀仏は三十二の優れた相を持ち、その一つが「広長舌相」です。嘘・偽りのないことを示す。
?「見宝塔品第十一」と「従地湧出品第十五」を継承して、空中の塔の中の釈迦と多宝如来が、大地から出現した求法者たちに、神通力で、第一から第十までの不思議をみせる。第一の不思議が、広長舌を出して、その広長舌を梵天に至らせる。「梵天」は天の一部でもあり神でもある。
嘱累品第二十二
ながれても あだにすなとぞ かき撫づる うることかたき 法
( のり ) をとけとて
現代語訳:教えが広宣流布しても、いい加減にしてはいけない、とお釈迦様は求道者の頭の頂きをお撫でになりました。得がたき法を説け、とおっしゃいながら。
参考
「うることかたき法」は「得難き法」の訓読み。
薬王菩薩本事品第二十三
ともしつる わが身ひとつの ひかりにて あまたの国を てらしつるかな
現代語訳:薬王菩薩は、自ら火をつけた自分の身体の明かりによって、多くの国を照らしました。
参考
私個人の気持ちは、「不惜身命」は心意気だけにしてほしい。
ベトナム戦争の時、あるいはチベット紛争の時、何人もの僧が焼身自殺をした。薬王菩薩と関係があるのかどうか…。
妙音菩薩品第二十四
ここにのみ ありとやはみる いづくにも たへなる声に 法をこそとけ
現代語訳:ここにだけ居ると見るのですか。妙音菩薩は、あらゆる所で美しい声で法華経を説いているのです。
参考
妙音菩薩は身を三十四も変化させて、あらゆる所で法華経を説いた。
観世音菩薩普門品第二十五
身を分けて あまねくのりを とく中に まだわたされぬ わが身かなしな
現代語訳:観世音菩薩は、その身を三十三に分けて、一切衆生のために広く仏の教えを説かれました。それなのに、まだ得度できない私は、なさけないことよ。
参考
➀観世音菩薩は、衆生の救いを求める声を観じて、その苦悩を解脱させる菩薩です。
?「あまねく」は「普門」の訓読み。
?「わたす」は、「度」(=渡)で、仏が苦の「此岸」から極楽の「彼岸」へ導くこと。
?下の句は、赤染衛門の心境・境涯を詠んでいます。
陀羅尼品第二十六
法まもる ちかひをふかく たてつれば すゑのよまでも あせじとぞ思ふ
現代語訳:法華経を護持する誓いをたてましたので、その誓いが、世の末までも、薄らぐことはないと思います。
参考
二人の菩薩と二人の天王と十羅刹女(十人の女性鬼人)が、法華経を護持する法師を守護するために「陀羅尼呪
( しゅ ) 」を唱えます。「陀羅尼」は梵語(サンスクリット語)。サンスクリット語はインドの一部で使用されているが、「陀羅尼」は秘密の呪文で、翻訳不可能とされていました。しかし、今では翻訳があります。
妙荘厳王本事品第二十七
仏には あふことかたき ゆゑにとて 子をゆるしてぞ おやもすすめし
現代語訳:仏には会うことがなかなかできない。それであるから子に出家させることを許し、親も仏門に入りました。
参考
浄蔵と浄眼の二人の子が、会うことが難しい仏に会ったので、母は子供の出家を許した。その後、母も父(妙荘厳王)も出家に至りました。
普賢菩薩勧発品第二十八
行末の 法をひろめに きたりける ちかひをきくが あはれなるかな
現代語訳:末の世にも仏の教えを広めようと、普賢菩薩は仏のもとへ来ました。普賢菩薩の誓いを聞くと、深く感嘆するなぁ。
参考
序品第一で、智の文殊菩薩が法華経が説かれる、と前口上し、最後は理の普賢菩薩が、入滅後の法華経広宣流布を誓願した。
合掌
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低所得者の最強家計防衛策は「住民税非課税制度」です。全世帯の4分の1が、非課税世帯です。「年金+給与」の人は、年金の額はしっかり分かります。年金だけでは足りないので、働きます。しかし、稼ぎすると、非課税世帯でなくなってしまいます。どこまで稼ぐか。これが、とても重要です。でも、誰も言わない、教えない。
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昔人の物語(第115話) 紫式部 …『無名草子』を読んで
(1)『無名草子』の「女性評論」
紫式部(973?〜1031?)から、約200年後、藤原俊成女が歌人として大活躍しました。『無名草子』(むみょうぞうし)は、藤原俊成女の作とされています。刑事ドラマ的に言えば、「状況証拠は藤原俊成女ですが、今一つ確実な物的証拠がない」ということなので、『無名草子』の作者は「通説」では藤原俊成女となっています。高校の歴史教科書に載っていないこともあって、さほど知られていないようです。
参考までに、藤原俊成(1114〜1204)は、第7勅撰集『千載和歌集』の撰者で、歌壇のトップにあった。子の藤原定家は、第8勅撰集『新古今和歌集』の実質的撰者である。また定家は『小倉百人一首』の撰者でもある。藤原俊成女(1171?〜1251?)は俊成の娘の子、すなわち俊成の孫で、俊成の養子です。藤原俊成女の和歌が『小倉百人一首』にないのは、不思議がられています。たぶん、彼女の代表作「下燃えに」が、あまりにもエロテック(妖艶過ぎる)だからと思います。本筋から離れすぎますので、省略します。
『無名草子』は「物語」の形式をとっていますが、実質的には日本最古の「文芸評論書」です。4部構成で、「序」「物語評論」「歌集評論」「女性評論」となっています。
「序」は、83歳の老尼が、当時は荒野に近い東山を散策していたら、古びた屋敷があり、そこの若い女房達とおしゃべりをすることになった。それを老尼が書き取った。
順番が後先になりますが、「女性評論」を先に紹介します。取り上げられている人物は、次のとおりです。小野小町、清少納言、小式部内侍、和泉式部、宮の宣旨(みやのせんじ、=大和宣旨)、伊勢の御息所(普通は単に「伊勢」)、兵衛内侍(琵琶の名手)、紫式部、皇后定子、上東門院彰子、大斎院選子、小野の皇太后宮歓子(=藤原歓子)。文芸に限定せず、音楽・生き方を含めての女性論で、作者は、どうやら、伊勢、大斎院選子、皇后定子、小野の皇太后宮歓子(=藤原歓子)の4人に感嘆しています。
では、紫式部について、どう書かれているのか。
まず、『源氏物語』執筆の経緯が書かれています。当時も2説あったことが分かります。
とりあえず、前提知識として、大斎院選子と上東門院彰子について。
大斎院選子(964〜1035)は、現代では選子内親王と呼ばれるのが一般的です。村上天皇(第62代)の皇女で、12歳の時、卜定(ぼくじょう)によって賀茂斎院となる。以後、円融(64代)、花山、一条、三条、後一条の5代57年間、斎院を務めた。それゆえ大斎院と称されました。「斎院」とは、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕する皇女である。「賀茂斎王」と称することもある。伊勢神宮にも似た役割で皇女が派遣され、こちらは「斎宮」と称される。賀茂神社の最大の祭祀は5月の賀茂祭(=葵祭)で、主催者は斎院(=賀茂斎王)です。賀茂祭は貴族が主体の祭で、見物のため牛車がズラリと並んだ。平安時代、「祭」といえば、「賀茂祭」をいった。7月の「祇園祭」は、八坂神社(祇園社)の祭で、庶民が主体である。
上東門院彰子(988〜1074)は、藤原道長の長女、一条天皇(第66代、在位986〜1011)の皇后(中宮)、そして、後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)です。
要するに、大斎院選子と上東門院彰子は、日本社会の女性トップどころか、選子は聖界のトップ、彰子は道長亡き後の摂政関白頼道(彰子の子)の上の存在で、二人は聖俗のトップです。
一つ目の説。
大斎院選子が上東門院彰子に「何か面白い物語はありますかね」と尋ねられました。
上東門院彰子は紫式部を呼んでアドバイスを求めた。
「何を差し上げたらよいだろうか?」
紫式部は「珍しい物語は何もございません。新しく作って、それを差し上げなさいませ」と返答した。
上東門院は「それでは、お前が作りなさい」とおっしゃった。
それで、『源氏物語』が書かれた。
この話は、『古本説話集』『河海抄』などに載っています。聖俗のトップ2人の意向で書かれたのが『源氏物語』ですよ、スゴイですねぇ〜、と思わせたいのでしょね。そんな意図が透けて見えます。それだけではなく、『源氏物語』は、聖俗にまたがる物語ということを暗示しているのかも知れません。
二つ目の説は、宮仕え以前に、自宅で作った。それが評判となって、中宮彰子に召し出された。中宮彰子と書きましたが、この時、彰子はまだ上東門院になっていませんので。そして、「紫式部」の名は『源氏物語』に由来していると記載されています。
『無名草子』では、「いづれか まことにてはべらむ」となっています。
現代の説では、紫式部の夫・藤原宣孝(のぶたか、?〜1001)が死亡した後、自宅で書き始めた。その後、中宮彰子に仕えるようになってからも、追加・補筆を書いた、ということらしい。どの部分が自宅か宮中か、あるいは、別人が書いた部分もあるのではないか、などについては、研究・推測の世界です。また、「紫式部」の名前の由来も、諸説あります。
次に、『無名草子』は、『紫式部日記』を根拠に彼女の性格を語っています。紫式部は大変な内気、恥ずかしがり屋で、目立ちたくない、学才でおべんちゃらを言うのは絶対しない。でも、道長と上東門院彰子の部分は、すばらしく書き過ぎているので、紫式部には似合わない。それは、道長と上東門院彰子の「御心柄なるべし」(ご性格でしょう)と、道長・彰子への忖度をにおわせています。
そもそも、現代人は『日記』は他人に読まれない前提であるが、当時の『日記』は他人に読まれるのが前提です。とりわけ、『紫式部日記』は、道長・彰子が絶対読むが大前提で、いわば、道長・彰子への「報告書」だろうと思います。
なお、『紫式部日記』は、次の内容です。
➀日記部分で、1008年秋〜1010年正月の1年数か月の出来事。中宮彰子のお産の記事が中心。道長にとって彰子の出産は、まさに天下の一大事なので、紫式部は、記録を命じられていたのかも知れません。
?消息文。周辺の女房たちの批評。和泉式部、赤染衛門への批評も有名ですが、とりわけ、清少納言をボロボロに書いているのが有名です。他人の批評だけでなく、自分への批評もある。とりわけ、出家生活を望みながらも、それに徹しきれない心情を「悲しくはべる」としています。
?中宮彰子の御堂詣で、及び道長と紫式部とのやりとり。
『無名草子』の「女性評論」の箇所は、そんなところですが、実は、「序」の後半からのおしゃべりでは「この世で一番捨てがたいものは何か」です。一に「月」、二は「文」、三は「夢」、四は「涙」、五は「阿弥陀仏」、六は「法華経」となっています。そして、「法華経」の箇所で、次のような会話があります。
「なぜ『源氏物語』の中に、法華経の一偈一句(いちげいっく)もお姿をお見せにならないのでしょう。『源氏物語』の欠点です」
「紫式部は、法華経をお読みにならなかったのかしら」
「さあどうでしょうか。あれほどの人が、法華経を読まなかったなど、有り得ません」
「それはそうとして、実は紫式部は強い信仰心の人で、朝夕ひたすら勤行して、俗世間のことは心にとめない人、と見られていたようです」
予め一言。
『源氏物語』は、前半は女性遍歴のスケベ話、後半は女性遍歴ながらも仏門がちらちら開いてきます。
(2)『無名草子』の「物語評論(登場女性評価)」
「序」に継いで、「物語評論」が始まり、かなり長い『源氏物語』評論となっています。最初は、54帖全体をさらっと評論しながら紹介してあります。それにならって、私もさらっと全体を要約します。
なお、「帖」とは、「巻」・「編」・「章」でもいいのですが、『源氏物語』は、昔から「54帖」と言われていたので、その言い方が定着しています。蛇足ですが、「帖」は半紙の数え方で、20枚で1帖です。
『源氏物語』の基礎知識ですが、3部に分かれます。2部説、4部説もありますが、3部説を支持する人が多いようです。
第1部1帖〜33帖。誕生から栄華の絶頂まで。光源氏と関係する女性は、葵の上、六条御息所、空蝉、夕顔、藤壺(父の更衣)、若紫(幼女、成長して紫の上)、末摘花(醜女)、朧月夜、花散里、明石、斎宮女御(後の秋好中宮、源氏は思うだけに終わった)、朝顔。
22帖〜31帖は、玉鬘(たまかずら)十帖といって、玉鬘中心の物語。玉鬘は夕顔と頭中将の娘であるが、源氏の養女となり、あれやこれや。
32帖・33帖は源氏絶頂。
第2部34帖〜41帖。朱雀院は末娘の女三の宮を源氏に嫁がせる。女三宮を中心に物語が展開される。「出家」が、大きなテーマとなっていく。41帖(雲隠)は、本文なし。源氏の死を暗示するため本文なし、と言われている。私の推理は、紫式部は、死後の世界を書こうと思ったが、「分からない」「怖すぎる」ため書けなかった、というものです。
第3部42帖〜54帖。女三宮の不義の子・薫(源氏の子として育てられた)と源氏の孫・匂宮が中心。45帖〜54帖は宇治十帖といわれる。宇治の大君・中君の姉妹と薫・匂宮とのゴタゴタ。薫・匂宮は浮舟を巡って三角関係になる。浮舟の自殺未遂。薫は浮舟に会おうとするが、仏道専心のため拒否される。読者にすれば、なんとなく中途半端な感じで終わっています。
さらに、簡略すれば、第1部は積極果敢ドンドン女性遍歴、レイプもあれば近親相姦、不倫もある。『源氏物語』のパロディである井原西鶴の『好色一代男』の世之介は色道一直線です。ラストシーンは女護ヶ島への船出です。船に持ち込んだ愛読書は『源氏物語』でした。そして「行方知れずなりにけり」。井原西鶴については「昔人の物語(第12話)」をご参照ください。
第2部は女性遍歴だけでなく出家も考えるようになりました。
第3部は「悩める人」はどうなるか。はたして仏道で救われるか。私の推理は、紫式部は前述の『紫式部日記』消息文の自己批評と同じ感じで、「仏道でたぶん救われる。でも、確信に至らない。分からない」、ということで、おしまい。前述したように、なにかしら中途半端な気分なので、多くの教養人が、『源氏物語』の続編を書いています。中でも『山路の露』(建礼門院右京大夫の作と推測)、『雲隠六帖』(作者不明)が知られています。
余談かも知れませんが、源信(942〜1017)の『往生要集』の影響が大きいかも知れません。『往生要集』は、抽象的な「地獄」を、具体的な恐るべき光景として詳細に文字化した。それを読んだ人、聞いた人は、震え上がった。「ひたすら念仏」と言われても、なかなか信じきれない。道長ら権力・財力のあるものは、自分の「極楽」行きを担保するため、「ひたすら念仏」だけではなく、この世に「極楽そっくりの豪華絢爛たる寺院」を建立した。道長は権力掌握のため非道・詐欺・恐喝を日常的に繰り返した。自分の地獄行きを避け極楽行きを担保するため、晩年・臨終間際は涙ぐましいというか、漫画的にもみえる行動をしたのである。道長は、はたして、極楽行きを確信できたのだろうか…。
紫式部は、どうであろうか。繰り返しになりますが、『紫式部日記』『源氏物語』からは、「仏道でたぶん救われる。でも、確信に至らない。分からない」ということです。宮中を去ってから、おそらく、目立たない、ひっそりと読経生活をしたのではなかろうか。
本筋の『無名草子』に戻ります。
『源氏物語』のさらっとした全体評論の次に各論に入ります。若い女房達の『源氏物語』に登場する女性への評価です。女性の名前のみ記しますが、『無名草子』本文には、あれこれ解説されています。
めでたき女は、桐壺の更衣、藤壺の宮。葵の上、明石。
いみじき女(善悪は関係なく印象的な女)は、朧月夜、朝顔、空蝉、宇治の大君、六条御息所。
好もしき女は、花散里、末摘花、六条御息所、斎宮女御(後の秋好中宮)、玉鬘。
末摘花(すえつむはな)に関して、一言。醜女であるが、源氏から放置されても、困窮生活になっても、ひたすら源氏を慕い続けた。その結果、源氏の妻の一人となった。『源氏物語』では異色の不美人であるが、詳細に述べられています。源氏の滅茶苦茶な女性遍歴の中で、唯一、源氏の人道的側面を表しているように思います。源氏は、デタラメな不良生活をしていたが栄耀栄華の地位に就いたわけですが、末摘花の存在で、源氏にも良いとこがあるじゃないの、というわけです。さらに言えば、末摘花を見捨てなかった源氏だからこそ栄華を獲得できた、とも解釈できるのではないでしょうか。
唐突ですが、私は、ゲーテのファウストを思い出します。ファウストと悪魔が契約をします。悪魔はあらゆる快楽をファウストに与えます。ファウストが、「この瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」と口にしたら、ファウストの魂は悪魔のものになります。
ファウストは若者に変身し快楽づけになります。魔女の祭典「ワルブルギスの夜」にも遊びます。そうした中、純情素朴な貧困娘・グレートヒェンと恋をします。貧困ゆえに「赤子殺し」の罪でグレートヒェンは牢獄の人となり、死にます。その後、ファウストはギリシャ神話の絶世の美女神ヘレナを追いかけ結婚します。現世に戻り、権力を握ります。自由な民のため海を埋め立て土地をつくろうとします。悪魔はファウストの墓を掘ります。ファウストは墓堀りの音と干拓工事の音を聞き違え、その幸福感のため「この瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」とつぶやいてしまう。悪魔は、ファウストの魂を手にしたと思ったが、天上のグレートヒェンの祈りが勝ち、ファウストとグレートヒェンは天上で結ばれます。
私には、グレートヒェン=末摘花に思えてなりません。
本筋に戻って…、
いとおしき女は、紫の上、夕顔、雲居雁(夕霧の妻、『無名草子』では、なぜか藤裏葉となっている)、宇治の中君、女三の宮(朱雀帝の三女)、浮舟。
名前だけを記載しましたが、たとえば、浮舟について、「憎らしい女性」とか「宇治川に身を投げたのはかわいそう」とか「しっかりしている」と書いてあります。
(3)『無名草子』の「物語評論(登場男性評価など)」
女性評価に比べ、男性評価の分量は当然僅かです。数人の男性評価がなされていますが、それは省略して、気になるのは、光源氏への評価です。
「源氏のことについては、よいわるいなどを評価するのも、今さららしく気がひけることなので、申すに及ばない」と言いながらも、悪評価の言葉が続々です。「(源氏は)本当にいやなお心です」「どう考えても本当に残念なお心です」「まったくよろしくないお心ですよ」「どっしりと落ち着いたお心がたりなくていらっしゃる」ということです。
若い女房たちの光源氏への評価は、とても悪い。顔が光のようにハンサムで、かつ、お金があっても、心がとても悪い、と正確な評価を下しています。
であるので、つまり、悪い心の男なのに、大出世したのは、変だなぁ〜、と思ってしまうのです。そして、あれこれ深く考えてしまうのであります。
前段に書きましたように、強引に、「末摘花救済=人道主義」「グレートヒェン=末摘花」を考える。
あるいは、現実政治は光源氏のようなデタラメが横行しているではないか。藤原道長をみよ。道長は権力掌握のため非道・詐欺・恐喝を日常的に繰り返し、その結果が栄耀栄華である。紫式部は、遠回しに気がつかれないように、道長を批判しているのだ。
あるいは、現実政治ではなく、社会の在り方を批判しているのだ。『竹取物語』とは「男の申し出を拒否できる女性」が主役です。少し前の時代の小野小町は求愛男性に「百夜通い」を要求した。つまりは、小野小町も「拒否できる女性」である。それが、今は何たる事か。女性は拒否してもレイプされてしまう。親のいいなりじゃないか。周りは「拒否できない女性」ばかりじゃないか。情けない!なお、小野小町に関しては、「昔人の物語(第49話)」をご参照ください。
と、まあ、いろいろ飛躍・発展してしまいますので、この程度で。
登場男性評価に続いて、「あわれなること」のシーンが登場します。王朝文化の基本理念の一つは、「もののあわれ」です。気の毒だ、という意味ではありません。「しみじみと感動する」という意味が近いと思います。「あわれなること」の名シーンが十数か所語られます。
次は「いみじきこと」のシーンです。「いみじき」は「とても恐ろしい」「とてもすばらしい」の両方の意味を持っています。数か所の名シーンが紹介されています。
次は「いとおしきこと」です。漢字で書けば「愛おしい」です。「かわいい」という意味で、やはり、数か所の名シーンが紹介されています。
次は「心やましきこと」です。不愉快なことの意味です。源氏の行動も2〜3取り上げられています。
次は「あさましきこと」です。驚きあきれることの意味です。4シーン紹介され、源氏の行動も1つあります。
なお、『無名草子』には、『源氏物語』以外の物語の評論もあります。
『狭衣物語』(さごろも・ものがたり)、『夜の寝覚』、『みつの浜松』の3作品は、一部は散逸しています。評論は省略します。
『玉藻』『隠れ蓑』『今とりかへばや』『心高き』など19作品が紹介されていますが、現在は発見されていません。どうやら、和歌集に比べて物語は価値が低かったようです。
『伊勢物語』『大和物語』は、簡単に紹介されています。
『無名草子』の「歌集評論」の部分は、省略します。
(4)父・藤原為時
『無名草子』の紹介で、おおよそ紫式部の輪郭を述べたつもりですが、もう少し、輪郭をはっきりさせたいと思います。
紫式部(973?〜1031?)の誕生年は、970年説から978年説まで、いろいろです。没年に関しても、1014年説から1031年説までいろいろです。一応、(973?〜1031?)と書きましたが、定説ではありません。「定説がない」のです。
父は、藤原為時(949?〜1029?)です。最高位階は「正五位下」ですから、中級貴族です。かなり、漢詩文の才があった。996年に越前国の国司に任じられた。実は、内定していたのは、小国・淡路国であったが、突然、大国・越前国の国司に任じられた。そのため、様々の風評が立ったが、宋商人が若狭に来たため、宋人との交渉のため漢詩文の才能がある藤原為時が急きょ選ばれたということらしい。中国語がペラペラかどうかは分かりませんが、少なくとも筆談は可能でした。
この時、紫式部も越前に同行し、約2年間、越前に滞在した。
藤原為時を「下級貴族」と称している文章をたまに見かけますが、これは、「紫式部は下級貴族の娘」という錯覚をもたらします。貴族の上・中・下の区分は次のようになります。
上級貴族… 一位・二位・三位 …公卿
中級貴族… 四位・五位 …大夫
下級貴族…「正六位上」 …士
律令では、貴族とは五位以上をいうのですが、「正六位上」は貴族にとても近い、ということで「貴族扱い」となり、事実上、「下級貴族」と見なされました。「正六位上」よりも下の位階名はありますが、平安時代中期には有名無実となっていました。
なお、大国・越前国の国司として受領したということは、下世話な話、滅茶儲けのポジションです。
ともかくも、「紫式部は中級貴族の娘」で、どうやら、「上級貴族の娘よりも中級貴族の娘がいい女」という自負心を持っていたようです。「第2帖・帚木(ははきぎ)」の「雨夜の品定め」を読むと、そんなことが感じられます。
余談ですが、『伊勢物語』では、在原業平と駆落ちした上級貴族の娘・藤原高子(二条后)は、深窓育ちのため、草の上にキラキラ輝く「露」(つゆ)さえ知らなかった。「露」を詠んだ和歌は非常に多いにもかかわらず、それを知らない。紫式部にしてみれば、上級貴族の娘は「馬っ鹿じゃなかろか」って感じを持っていたのではないでしょうか。藤原高子の和歌は『古今和歌集』に1首のみです。なお、藤原高子(二条后)に関しては、『昔人の物語(第60話)』をご参照ください。
それから、紫式部の漢詩文の知識に関して若干述べます。父・藤原為時は漢詩文の学者で、息子の藤原惟規(974?〜1011)に漢詩文を教えたが、なかなか暗記できない。その傍らで聞いていた紫式部(姉か妹か不明)は全部覚えてしまった。父親は「男だったらなぁ」と残念がった。IQ抜群の紫式部は、漢詩文の知識は相当なものでした。
しかし、漢詩文の知識を露骨に表明することは紫式部にとって恥と認識していた。『紫式部日記』の中の清少納言へのボロクソ批評は、漢詩文への見解と立場上の理由があります。まず、立場上の理由を。
清少納言は皇后定子(977〜1001)の女房で、紫式部は中宮彰子(988〜1074、後に上東門院)の女房です。
定子は、990年に、一条天皇(第66代、在位986〜1011、生没980〜1011)の女御・皇后になります。二人は、珍しいくらいのラブラブ関係であった。しかし、定子の実家が道長の陰謀によって凋落し、道長の天下となり、道長の長女・彰子が1000年に中宮となる。定子は皇后のままです。元来は、皇后=中宮ですが、「一帝二后」となった。定子は、いわば日陰の皇后となったが、一条と定子のラブラブ関係は、道長の陰湿な妨害にもかかわらずラブラブであった。しかし、1001年に定子は崩御した。その後は、一条と彰子は円滑な関係となった。
紫式部の立場からすれば、定子の悪口は言えないが、それに仕える清少納言の悪口を言うことは、「私は彰子さまを大切にしています」という証である。もちろん、立場だけでなく、紫式部の内気、恥ずかしがり屋、目立ちたくない、という性格が基本にあります。内心では「清少納言は漢詩文の知識を見せびらかしているが、あんなのは低レベルよ。私の方がズット高レベルよ。女が漢詩文の知識を見せびらかすのは、恥ずかしいことなの」という感覚を強く持っていたのでしょう。どうやら、「男は漢字、女は仮名」と強烈に意識することが、女の独自性の強調で、女が漢字を見せびらかすのは男への従属と思っていたのではないでしょうか。
(5)夫・藤原宣孝
紫式部は、998年頃、藤原宣孝(のぶたか、?〜1001)と結婚した。藤原宣孝は、紫式部が越前へ行く前から求婚していて、帰京を待って結婚した。官位は「正五位下」なので、父と同じだが、約20歳の年上であった。宣孝の4番目の妻である。そして、娘の「大弐三位」(だいにのさんみ、?999〜?1082)が生まれた。藤原宣孝は1001年に、感染症大流行で病死します。結婚生活は、わずか3年でした。
紫式部は初婚だったのか。
あの時代は、今の感覚からすればフリーセックスOKですから、他に男がいても不思議ではありません。仮説の一つに、紀時文(922?〜996?)と結婚して、後家になってから、藤原宣孝と再婚した、という説もあります。
一番の関心事は、藤原道長との関係です。『紫式部日記』には、彰子の女房として宮中にいた時、道長が紫式部の局へ来たが、適当にあしらった、ことが書いてあります。野次馬は、1回ぐらいは関係したかも…、と思ったりしますが、藤原宣孝が死亡してからの紫式部の快楽は、『源氏物語』のストーリーを考え、書いている時が最高なのです。紫式部にとって、現実の性的快楽よりも空想の快楽の方が数十倍も大きいと推理します。したがって、藤原宣孝以外の男は、紫式部にとって、取るに足らない存在に過ぎません。ただし、道長はスポンサーとして必要でした。当時は、紙は貴重品で、書写する人手も大勢必要でした。『源氏物語』は54帖もあり、それを数十もそろえるとなると、現代感覚からすれば数億円の経費が必要です。原稿料が入るわけではないので、スポンサーが必要でした。
1001年4月25日、夫・藤原宣孝が亡くなった。その時、紫式部が詠んだ和歌が『紫式部集』にのっています。未亡人が「寂しいな」と亡き夫を思い浮かべる歌です。
『紫式部集』には、126首が掲載され、その48番目の和歌です。
詞書(ことばがき)は、「世の中のはかなき事を嘆くころ、陸奥に名ある所々を書きたる絵を見侍りて」です。
見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞ睦ましき 塩釜の浦
(訳)塩釜は海藻を焼いて塩を取る所で有名。絵には、煙が書いてあるのだろう。見なれた人が火葬の煙となった夕べから、塩釜の名前が親しく感じられます。
ついでながら、1002年2月7日に、国母の東三条院詮子が崩御した。その時の和歌が41番にあります。詞書・和歌は省略しますが、その意味は「国母が崩御して国中が喪に服している時に、どうして私ごときが、夫の死を悲しんで泣いておられましょうか」というものです。
『紫式部集』から、紫式部はズット夫の死を悲しんでいたことが分かります。年上の夫、後妻ですが、夫を愛していたことが推測されます。
なお、紫式部は詠んだ和歌は『紫式部集』の126首だけではありません。『紫式部日記』には18首、『源氏物語』には約800首、『新古今和歌集』にも14首の和歌があります。紫式部は『源氏物語』という長編作家だけでなく、歌人としての才能も秀でており、中古36歌仙、女房36歌仙、小倉百人一首にも選ばれています。小倉百人一首の歌は、『紫式部集』の最初に登場する歌で、古い友人にあてたものです。
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな
(訳)久しぶりに めぐり合ったのに、見たと思ったら、あなたと分からないまま、すぐに帰られてしまった。雲に隠れた夜半の月のようですね。
(6)宮仕えの期間
999年、彰子(12歳)、入内。
1001年、定子崩御。
1001年、夫・藤原宣孝が感染症で亡くなる。
1002年、藤原詮子崩御。
はっきりしませんが、夫・藤原宣孝の死後、『源氏物語』を書き始めました。
中宮彰子に仕える前に、道長(966〜1028)の正妻である源倫子(964〜1053)に仕えたことがあると推理されています。
紫式部の中宮彰子への宮仕え期間は、1006年もしくは1007年から始まり、1012年もしくは1014年頃までと推測されています。紫式部の女房期間は、10年に満ちません。要するに、宮仕えは、あまり好きではなかったのでしょう。
その間の1011年に一条天皇が崩御しています。彰子(988〜1074)は皇太后になります。彰子について一言だけ。父・道長が、一条天皇を粗略に扱うことに彰子は怒っていた。紫式部は彰子の家庭教師の役割をはたしていたので、その影響かもしれません。
『紫式部日記』の日記部分は、1008年秋〜1010年正月です。
1017年に、紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ、?999〜?1082)が皇太后彰子の女房として出仕した。内向きの母と違って、男性関係はそこそこ積極的でありました。和歌の才能もあり、女房36歌仙の一人であり、『小倉百人一首』にも選ばれています。
紫式部の死亡年は、1014年説から1031年説まで、いろいろです。
1028年、藤原道長死去。
1029年(推定)、父・藤原為時死去。
1074年、上東門院彰子崩御。
紫式部の生没、宮仕えの期間、および『源氏物語』執筆の時期は、多くの説があります。 以上
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暮れから新年にかけて、新しい年の予想が報道されます。毎年のことですが、あっさり言って、「いい1年になるだろう」から「悪い1年になるだろう」と、論者によってバラバラです。したがって、誰かは当たります。
1日は、能登半島で大地震発生。2日は、羽田空港で飛行機事故。3日は、何が…、と心配します。
さて、今年は、5年に1度の、年金の「財政検証」が公表される年です。したがって、年金の報道が、とても多くなります。私は、そのことを踏まえて、昨年暮れに、『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(太田哲二著、中央経済社刊、定価2,000円+税)を発表しました。
通常の人は、高齢になれば、年金が基本収入になりますが、年金だけでは不足します。2,000万円以上の預貯金を貯えられた高齢者はよいのですが、諸々の理由で、それができなかった高齢者も多数います。となると、「働く・稼ぐ」ことになります。つまり「年金+給与」のパターンです。
ここで落し穴が待っています。「どこまで稼ぐか」が、とても重要なのです。103万円の壁、106万円の壁、130万円の壁は頻繁に語られますが、「年金+給与」の場合、「どこまで稼ぐのが賢いのか」を、誰も、教えません。誰も、知らせません。不思議ですね。
高齢社会、超高齢社会です。「年金+給与」を正面から見つめて、一人一人が「どこまで稼ぐか」を知る必要があります。
そんなことを申し上げて、新年のご挨拶といたします。
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私は、医薬経済オンラインで、『昔人の物語』を連載していますが、その中で紫式部および関連人物を取り上げています。
「医薬経済オンライン」「昔人」「人物」で検索すれば読めます。
第115話 紫式部(970?〜1019以降)
第34話 藤原道綱母(936?〜995)…『蜻蛉日記』作者
第46話 赤染衛門(956?〜1041)
第71話 源頼光(948〜1021)
第75話 和泉式部(978〜?)
第112話 藤原明衡(あきひら、989?〜1066)…『新猿楽記』作者
第116話 安倍晴明(921〜1005)…陰陽師
以下の二人は、まだ「医薬経済オンライン」には掲載されていません。ご希望があれば、メールでお送りします。
藤原詮子(962〜1002)…道長の黒幕
源 高明(914〜983)…藤原北家の陰謀で大宰府へ左遷された
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『女性自身web』の12月22日号で、「100万円損することも!年金生活者を脅かす『211万円の壁』」の記事があります。私が取材を受けての記事です。最後に、拙著『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社刊)が紹介されています。
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太田哲二著 中央経済社刊 定価未定
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健康ならば、どこかで働きます。「年金+給与」です。
よく、「103万円の壁」「106万円の壁」「130万円の壁」を耳にします。
でも、それよりも、はるかに深刻な「年金+給与」の落とし穴は、誰も語りません。
「48万円の壁」「住民税非課税限度額の壁」を賢く突破するため、年金と給与の関係を、わかりやすく解説します。
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ひふみ よいむなや
こともちろらね
しきる ゆゐつわね
そをたはくめか
うおえ にさりへて
のますあせゑほ れけん
「ひふみ歌」は、「いろは歌」と同じように、47文字が1字づつの歌です。
最初の、「ひ・ふ・み よ・い・む・な・や こ・と」までは、理解できます。
次が、「も(百) ち(千) ろ(万) ら(億) ね(兆)」らしいのです。
そして、その後は、さっぱり分かりません。
調べてみると、様々な解釈があります。とにかく、「ありがたい」歌であるようです。インターネットで検索すれば、いろいろな解釈・説が登場します。
一説では、天照大神が岩戸に籠った時に、この祝詞が奏上され、アメノウズメがセクシーダンスをした、ということです。
とにかく、考古学の発掘物にも書かれていて、とんでもなく古い歌(祝詞)のようです。
私が子供の頃は、「47回、口の中に食物を入れたら、「ひふみ歌」を黙って歌いながら、47回噛むのが健康によい」と教えられました。「ひ〜と」までを4回と最後は「ひ〜な」までを実際に行いました。
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天之日矛(あめのひほこ)物語
目次 (1)『古事記』応神天皇の箇所の「天之日矛(あめのひほこ)物語」
(2)『古事記』応神天皇の箇所の「秋山と春山の物語」
(3)『日本書紀』垂仁天皇の箇所の天日槍(あめのひほこ)の話
(4)『播磨国風土記』の天日槍(あめのひほこ)の話
(5)『三国史記』の「新羅本紀・第一巻」
(6)若干の解説
(1)『古事記』応神天皇の箇所の「天之日矛(あめのひほこ)物語」
昔、新羅の王子がいた。名を、天之日矛(あめのひほこ)という。彼が、倭へ来た所以を述べましょう。
新羅に一つの沼がありました。沼の名は、阿具奴摩(あぐぬま)といいます。
この沼のほとりに、身分の低い女が昼寝をしていました。太陽が虹のように輝き、その女の女性器を照らした。
もう一人、身分の低い男がいて、その異様な光景を見ていた。
女は昼寝をしたまま妊娠し、赤玉を生みました。
男は、その赤玉を欲しくなり、女に頼み込み、もらい受けました。男は、常に、赤玉をつつんで、腰につけました。
この男は山の谷に畑を持っていて、使用人に耕せていました。男は、使用人の食料を牛に乗せて谷に入ろうとしました。そこで、天之日矛(あめのひほこ)にバッタリ出会いました。
天之日矛は「お前は、どうして、食料を牛に乗せて山に入るのか?さては、牛を殺して食べるつもりだな」と難癖をつけました。
すぐさま、男を逮捕して牢屋に入れました。
男は「私は牛を殺すことはしません。ただ、谷の畑で働く使用人に食料を運んでいるだけです」と弁明しました。
しかし、天之日矛は男を許しません。
そこで、男は腰につけている赤玉を天之日矛に渡しました。その結果、男は許されました。
天之日矛は最初から男の赤玉を手に入れるため、難癖をつけていたのでした。
天之日矛(あめのひほこ)は、家に赤玉を持ち帰り、床に置きました。すると、赤玉は美少女になりました。
天之日矛は、その美少女を妻としました。美少女は、いろいろな美味しい料理、珍しい料理をつくり、夫に食べさせました。
天之日矛は有頂天になり、感謝どころか、妻をののしるようになりました。
美少女の妻は言いました。
「そもそも私は、あなたの妻になるような女でございません。私の祖国へ帰ります」
そう言って、密かに小船に乗って逃げ去り、難波にたどり着きました。
この美少女は、難波の比売碁曽社(ひめごそ・の・やしろ)の阿加流比売(あかる・ひめ)です。
天之日矛(あめのひほこ)は妻が逃げたことを知り、追いかけて難波に到着しました。しかし、海の神がさえぎって会えません。
しかたがないので、天之日矛は引き返して但馬(たぢま)に留まりました。
※但馬国は兵庫県の日本海側です。
天之日矛(あめのひほこ)は、結局、但馬国に留まり続けました。
多遅摩(たぢま)の俣尾(またお)の娘である前津見(まへつみ)と結婚して、その子が多遅摩母呂須玖(たぢま・もろすく)です。
(新羅王の子(2世)が天之日矛、孫(3世)が多遅摩母呂須玖)
その子が、多遅摩斐泥(たぢま・ひね)です。(新羅王の曾孫(ひまご、4世))
その子が、多遅摩比那良岐(たぢま・ひならき)です。(新羅王の玄孫、5世)
その子が、多遅麻毛理(たぢま・もり)、多遅摩比多詞(たぢま・ひたか)、清日子(きよひこ)です。(新羅王の来孫、6世)
清日子が当摩之?斐(たぎまのめひ)と結婚して産んだ子が、酢鹿之諸男(すがのもろを)と妹の菅竈由良美(すがくどゆらどみ)です。(新羅王の7世)
多遅摩比多詞(たぢま・ひたか)が、姪の由良度美(ゆらどみ)を娶って産んだ子が、葛城の高額比売命(たかぬかひめ・の・みこと)です。(新羅王の7世)
(菅竈由良美と由良度美は、同一人物)
高額比売命(たかぬかひめ・の・みこと)は、息長帯比売命(おきながたらしひめ・の・みこと=神功皇后)の母です。つまり、神功皇后は新羅王(1世)の8世にあたります。
天之日矛(あめのひほこ)は、手ぶらで来たわけではありませんでした。8種類の玉つ宝を持ってきました。
珠(たま)が2つ、浪を起こすヒレ(神力をもつ布)、浪を鎮めるヒレ、風を起こすヒレ、風を鎮めるヒレ、沖の鏡、辺の鏡、以上の8つです。
これは、伊豆志神社の八前(やまえ)大神です。
※伊豆志神社は、現在は出石(いずし)神社と書きます。所在は但馬国、現在は兵庫県豊岡市です。
(2)『古事記』応神天皇の箇所の「秋山と春山の物語」
前段の「天之日矛(あめのひほこ)物語」の、いわば続編です。
伊豆志大神には、娘がいました。名前を伊豆志袁登売神(いずし・をとめ・の・かみ)といいます。多くの男たちが彼女を娶ろうとしましたが、だれも結婚できませんでした。
そこに、二人の兄弟が出てきました。
兄の秋山之下氷壮夫(あきやま・の・したひ・おとこ)と
弟の春山之霞壮夫(はるやま・の・かすみ・おとこ)です。
兄が弟に言いました。
「私は、彼女を妻としたいが、断られてしまった。お前は彼女を妻にできるか?」
弟は、「たやすいことです」と答えました。
そこで兄は言いました。
「もし、お前が彼女を妻にできたなら、私は衣服を全部脱いで裸になってやる。身の丈の高さのカメいっぱいの酒をつくってやる。さらに、山海の食材をことごとく用意して御馳走してやる。」
弟(春山)は兄の言ったことを、そのまま母に話しました。それを聞いた母は、藤のツルを採ってきて、一晩で、衣・袴・下くつ・沓(くつ)を織り縫いました。さらに、弓矢もつくりました。そして、衣・袴などを着せて、弓矢を持たせ、女の家に行かせました。
弟が女の家に到着すると、衣服と弓矢の藤のつるから、いっぱいのく藤の花が咲きました。
弟は藤の花が咲き誇る弓矢を、女の家の厠に置きました。
女が厠に来ると、綺麗な藤の花が咲いているので、不思議に思い、藤の花の弓矢を持って家に入りました。
弟も藤の花に覆われていましたので、なんなく、弓矢の藤の花の後から女の家に入りました。そして、すかさずセックスしました。そして、一人の子を産みました。
弟は兄に「私は伊豆志袁登売を獲得した。妻にした」と言いました。
兄は弟の結婚に憤り、約束していたこと、すなわち、裸になる、いっぱい酒をつくる、御馳走することを実行しませんでした。
弟は、そのことを母に言いました。
母は答えました。
「この世のことは、神に習わなくてはいけません。それなのに、青人草(民草)に習うとは。償いをさせねば」
母の答は、神は約束を守るが、青人草(民草)=人間は約束を守らない、という前提です。
母は兄を恨みました。
伊豆志河の竹を取ってきて、編み目が荒い籠(かご)をつくりました。その中に、竹の葉で包んだ塩をまぶした河の石を入れました。そして、呪文をかけました。
「この竹の葉が青いように、この竹の葉がしなびるように、青くなったり、しなびたようになれ。潮(塩)の満ち引きのように、元気になったり病気になったりしろ。この石が沈むように、沈み臥せよ」
呪文をかけた荒籠をかまどの上に置きました。
これによって、兄は8年間、干からび、しなびて、病気ばかりしました。
兄は泣いて母に許しを請いました。すると、たちまち呪は解けました。それで、元のようになりました。
これが、「神うれづく」という言葉の始めです。
※「神うれづく」とは、「神に誓った賭けの品物は、きちんとしなさい」という意味です。
(3)『日本書紀』垂仁天皇の箇所の天日槍(あめのひほこ)の話
『日本書紀』の垂仁天皇(第11代)3年の箇所に、天日槍(あめのひほこ)が来た、とあります。漢字は「天之日矛(あめのひほこ)」と違いますが同一人物です。内容は、持ってきた神宝の名前だけです。羽太玉・足高玉・鵜鹿々赤石玉・出石小刀・出石鉾・日鏡・熊神籬(くま・の・ひもろぎ)の7つ。但馬国に献上し、神の物となった。
なお、神籬(ひもろぎ)とは神を招くための祭具ですが、熊神籬がどんな祭具なのか分かりません。
『日本書紀』の垂仁天皇(第11代)3年の別伝では、播磨に来て、神宝は8つです。天皇は、播磨国宍栗邑と淡路島出浅邑に居住を許したが、天之日矛は各地を回って適地を探すことを願って許された。近江国、若狭国を経て但馬国に定住した。但馬国出島(=出石)の太耳の娘・麻多鳥(またお)を妻とした。
『日本書紀』の垂仁天皇(第11代)88年の箇所では、神物は5つ。別途、隠し持っている神宝「小刀」が1つ。この「小刀」は、超能力を発揮し、最後は淡路島に至った。
(4)『播磨国風土記』の天日槍(あめのひほこ)の話
風土記は、奈良時代初期に官命によって、各国が編集した。しかし、完本として現存するものは、『出雲国風土記』だけである。一部欠損は『播磨国風土記』『肥前国風土記』『常陸国風土記』『豊後国風土記』である。後世の書物に引用されている「逸文」(いつぶん)は、『山城国風土記』『摂津国風土記』など20か国である。他の国のものは未発見という状況である。
『播磨国風土記』の内容は、
➀渡来人関係のものが多くあります。その中に、天日槍の伝承があります。
?応神天皇の巡行が数多くあります。『記紀』には、応神天皇の巡行は、近江国宇遅野(現在の京都府宇治市)で、「国誉め」の歌を詠んだ後、和珥(わに)氏の宮主矢河枝比売(みやぬし・やかはえ・ひめ)を口説いて妻にした、という話しかありません。
?葦原志許乎命(あしはら・の・しこを・の・みこと)と「他の神」との間で、頻繁に「国占め」争いがあった。葦原志挙許命は「大国主」と見なされています。同一人物でなくても、大国主の影響を受けた融合神でしょう。争った「他の神」の一人が、天日槍です。
なお、大国主は、実に多くの別名を持っています。また、出雲だけではなく、多くの地域で登場しています。
?その他にも、いろいろあります。㋑雄略天皇に殺された市辺押磐皇子(いちのべのおしわ・の・みこ)の2人の子の逃亡逸話。㋺大国主にからんでの日女道丘(ひめじおか、現在の姫路)など14の岡の名の由来。
さて、『古事記』『日本書紀』の天日槍の話は単純化すると、新羅から倭へやってきて、難波に行ったが、難波ではトラブルがあり定着できず、結局は、但馬に定着した、ということです。
『播磨風土記』では、天日槍の播磨での行動が書かれています。当時の播磨は兵庫県南西部(赤穂・姫路・明石及びその北方)で、播磨の北が但馬です。
以下は『播磨国風土記』の「揖保の群」の一部の要約です。
粒丘(いいぼおか)。粒丘と名づけた理由は次の理由です。天日槍が、韓国(新羅)から渡ってきて、宇頭川の下流に来た。
※宇頭川は、現在名の揖保川(いぼがわ、姫路市の西)です。
その地にいた葦原志許乎命(あしはら・の・しこを・の・みこと)に、「あなたは、国主です。私が宿るところはないか」と尋ねました。
※「宿る」は、旅の一泊、二泊の意味ではなく、定住の意味です。要するに、「私が支配する地域はあるか」と、その地の支配権を求めたのです。「国占め」争いです。
その問に対して、志許乎(しこを)は「海中ならいいよ」と答えました。
※拒否回答です。
そしたら、天日槍は、剣で海水をかき混ぜて、宿った。
※海上の船で軍事デモンストレーションをした、ということか…。
志許乎は、天日槍の盛んな行動を見て、天日槍がこの地を占領するのではないか、と恐れた。志許乎は、まだ、この地を完璧に掌握していなかったので、このままでは天日槍にこの地を取られてしまう、と恐れた。そこで、志許乎は、まず、この地を完璧に掌握しようと思って、あちこち巡って、粒丘に到って、食事をした。食事をしたら、口から米粒が落ちた。
※その地の住民に「食べきれないほどの食料がある土地にします」と説得し、実際に、食べきれない食料を実演したのであろう。考古学的に言えば、住民に「稲作」を伝授した。住民は、喜んで志許乎(大国主)に従うことになる。
だから、この丘は、粒丘と名づけられた。この丘の小石はみんな米粒に似ている。
また、杖(つえ)で地を刺すとすぐに冷たい和泉が湧き出て、南北に通じた。北の水は冷たく南は温かい。オケラ(薬草)が生えている。
※播磨の川は、みな北から南へ流れている。稲作には豊富な水が必要で、水もある。現状の事実を述べて、前段の話の信憑性を高める狙いもあるのだろう。
次は『播磨国風土記』の「宍禾(しさわ)の群」の天日槍が登場するところです。[御方(みかた)の里]の箇所に注目して下さい。
[川音の村]天日槍が、この村に泊まられて、「川の音いと高し」と言われたので、「川音の村」となった。
[奪谷(うばひだに)]志許乎と天日槍が、この谷を奪い合った。それで、「奪谷」となった。
[高屋(たかや)の里]天日槍が「この村の高さは、他の村よりも勝っている」と言われたので、「高家」となった。
[伊奈加(いなか)川]志許乎と天日槍が、「国占め」争いで、この川のほとりで、馬がいなないた。それで「伊奈加川」となった。
[波加(はか)の村]「国占め」争いの時、天日槍が先に着いた所である。伊和大神は後にやってきた。それで、志許乎は非常に不思議がって言いました。「伊和大神は何らのはかりごともなしでいたので、天日槍に先をこされた」。それで、「波加の村」となった。
※天日槍は、一時期、ある場所では、「国占め」争いに勝っていた。伊和大神は播磨の土着神で、有力な神ではなかった。
[御方(みかた)の里]志許乎と天日槍は、黒土の志尓嵩(しにたけ)に到り、おのおの、黒葛(かづら)3条(かた)を持って、み足につけて投げた。「条」は長いものを数える数詞です。志許乎が投げた黒葛は、1条は但馬国気多郡に落ち、1条は但馬国夜夫郡に落ち、1条はこの村に落ちた。それで、ここを、「三条(みかた)」となった。天日槍が投げた黒葛は3条とも但馬国に落ちた。それゆえ、但馬の伊都志(いどし)の地を占めて定住した。
要するに、天日槍は播磨国に定住希望した。播磨地元首長と「国占め」争いをしたが、合戦の有無は不明ですが、かなり苦心惨憺したようです。しかし結局は、敗れて丹後の地に定住することになったのであります。
(5)『三国史記』の「新羅本紀・第一巻」
『記紀』では天之日矛(あめのひほこ)は「新羅王の子」となっていますので、第何代の何という王なのか、調べてみました。
朝鮮の現存最古の歴史書である『三国史記』の「新羅本紀第一巻」からすると、どうやら「第4代王の脱解尼師今(だっかい・にしきん、在位57〜80)」ではなかろうか。
「尼師今」とは、新羅語で「歯のあと」という意味です。新羅の昔話に、聖人は歯が多いので餅を噛んで歯のあとを数えて多ければ王にした、というものです。
脱解尼師今の部分は面白いので要約してみます。
倭国の東北千里に多婆那国がある。
ここを丹波とする説(発音が似ているから)もあるが、『三国遺事』では竜宮国となっている。『三国遺事』は『三国史記』に次ぐ歴史書です。
多婆那国の王が女人国の王女を妻とした。妊娠して7年後に大きな卵を産んだ。王は「人が卵を産むとは不吉だ。捨てよ」と命じた。しかし、王の妻は、卵を絹で包み、宝物といっしょに箱に入れ、海に流した。箱は流れ流れて、辰韓(後の新羅)の阿珍浦に流れついた。海辺の老婆が箱を拾い開けてみると、中に幼子がいた。老婆が育てた。すばらしい若者に成長した。
人々は、この若者の「姓も名も分からない」ので、姓と名をつけることになった。
「はじめ海岸に箱が流れついた時、鵲(かささぎ)が鳴きながらついて来たので、「鵲」の字を省略して「昔」を姓としよう。また箱を解いて脱け出てきたので名を「脱解」としよう」
脱解は、勤勉かつ学問に励み、やがて王から認められ、王女を娶り、新羅の第4代の王となりました。分り切ったことですが、神話・伝説です。
なお、新羅の王は3つの姓の交代と形式をとる。初代の赫居世(かくきょせい、在位前57〜後4)の姓は「朴」氏で、第4代の脱解の姓は「昔」氏で、第13代の味鄒(みすう、在位262〜284)の姓は「金」氏で、この朴・昔・金の交代です。これも、神話・伝説です。朴・昔・金の始祖3人は卵から産まれています。
関連して書いておきたいことがあります。
「新羅本紀・第一巻」の最初は、紀元前57年、赫居世の即位です。簡略すると、赫居世は瓠(ひさご)のようなおおきな卵から産まれた、と書いてあります。「瓠」とは、ひょうたんの意味です。
紀元前54年、日食があった。
紀元前53年、竜が女児を産んだ。始祖(赫居世)の妃となった。
紀元前50年、倭人が兵を率いて辺境を侵そうとした。しかし、倭人は始祖の神秘性を聞いて、すぐに引き返した。
紀元前49、44,41、39,37,34,33、28,26年の記事は省略。
紀元前20年、馬韓王瓠公(ここう)の記事がある。記事中に、瓠公の出身は不明だが、もと倭人で、瓠(ひさご)を腰につけて海を渡ってきたので瓠公と称した、とあります。
再度、いくつかの年の記事を省略します。
紀元後14年、倭人が兵船百余隻で海辺に侵入して略奪した。王は強兵を出して防いだ。
その後も、「新羅本記・第一巻」の最初の頃、かなり倭人・倭国が登場しています。
ということは、紀元前1世紀〜紀元後1世紀においても、倭人・倭国と朝鮮半島の交流が相当あったことが推測されます。もっとも、もっと鳥瞰的に眺めれば、弥生時代は朝鮮半島を含めて大陸から、断続的に実に多くの渡来人がやってきました。それが基本的事実です。
日本神話では、「渡来人がきた」≒「天孫降臨」でしょう。
『三国史記』の「新羅本紀・第一巻」で倭の記事が散見されるのは、なぜか。倭だけが登場しているのではなく、楽浪郡、高句麗、百済の記事も多くあります。新羅の立場から、新羅と関係がある国が頻繁にに記載されている、ということです。
さて、天之日矛は、どの新羅王の子なのか。卵生神話だけなら、朴・昔・金の始祖3人は卵から産まれています。海から流れてきたのは、「昔」氏の脱解尼師今だけです。なんとなく、『古事記』の話と一脈通じるかな…と思うわけです。
(6)若干の解説
●天日槍は、いつ頃、渡来したのか。弥生時代であることは間違いありません。弥生時代とは、「食料生産が始まってから前方後円墳の出現まで」「紀元前10世紀から紀元後3世紀」です。かつては、弥生式土器を使用していた時代、紀元前5世紀から紀元後3世紀、そんな説明がされていましたが、考古学の進展で変わりました。
大国主が活躍していたのですから、『記紀』で言えば、「国譲り以前」の時期である。「国譲り以前」≒「スサノオ〜大国主」となります。
●「卵生神話」は、朝鮮だけでなく、東南アジアに普及していました。
●「難波の比売碁曽社(ひめごそ・の・やしろ)」は、大坂市東成区の比売許曽神社(ひめこそ・じんじゃ)ではないかと推測されていますが、はっきりしません。
●「阿加流比売(あかる・ひめ)」については、現代は「阿加流」を「赤留」と書きます。「赤留比売命(あかる・ひめ・の・みこと)を祭神とする赤留比売命神社(大坂市平野区平野東)が存在し、しっかりと『古事記』神話を語っています。
●「但馬」は兵庫県の日本海側。「丹後」は京都府の日本海側。「丹波」は京の都に近い地域。「三丹」とも言われ、しばしば、この3つは混同されます。この3つは、当初「丹波」であった地域が分割され、丹波・丹後・但馬になりました。
●「出水(いずし)神社がある但馬には、他にも、ゆかりある神社、伝承があります。また、但馬の東の丹後は、「丹後王国」論があり、丹後・但馬は、出雲や吉備と同じように、かなり発展していました。丹後王国が栄えた頃は、まだ丹後・但馬の名は使用されていないので、「丹波王国」とも言われます。
●『古事記』の「天之日矛物語」は、早い話、神功皇后の遠い祖先は新羅王、そして、母は葛城氏ということを言いたいのだろうか…。
●「厠」は「川屋」とも書きました。当時の厠は小川の流れの横に建てられ、いわば自然流水活用の水洗トイレで、母屋と若干離れていました。母屋に忍び込むのは難しいが、厠は比較的簡単に行けます。『古事記』神武天皇の箇所にも、厠を利用して女性をくどく話があります。
そうした現実的説明とは別に、「生と死」の「境界」が厠という説明も成り立ちます。「食べ物(生)」と「大便(死・土)」の「境界」意識は、今日でも無意識に存在しており、「トイレの花子さん」につながっています。
●春山は首尾よく女の家に入り、すかさずレイプしたのか、女は一目ぼれしたのか、求婚の会話があって合意したのか、そこが関心事ですが、記されていません。現代では、「プロポーズ」=「花束贈呈」が流行っていますが、古代ではどうかしら。大量の藤の花をプレゼントされ、乙女心に火がついた、ということかなぁ〜。歌謡曲「百万本のバラ」を思い出しました。「春山秋山物語」は「百万本の藤の花」に改良すべし。そうすれば、「シンデレラ・ボーイ」「ラブ・ストーリー」の誕生です。
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日本の古代史は、王朝交代説を踏まえ、次のように分割すると分かりやすい、と思います。
(1)神武天皇(第1代)…存在しない。
(2)欠史8代(第2代〜9代)…存在しない。
(3)崇神王朝…崇神天皇(第10代)から…「三輪王朝」とも言う。
崇神(10代)と垂仁(11代)は存在可能性あり。12〜14代はフィクション。
(4)応神王朝…応神王朝(第15代)から…「河内王朝」とも言う。
雄略(21代)は確実に存在。他は存在可能性あり。
(5)継体王朝…継体天皇(第27代)から現在に至る。
ということで、これまでに、次の原稿を書きました。
神武天皇(第1代)、崇神天皇(第10代)、応神天皇(第15代)、雄略天皇(第21代)、武烈天皇(第26代)、継体天皇(第27代)です。
そして、別途、天之日矛(1世紀頃の新羅からの渡来人)、卑弥呼、衣通姫(そとおりひめ)、王仁(わに)、日本武尊、葛城襲津彦を書きました。
基本的なことは書いたつもりです。古代史をまとめるにあたって、?権力闘争の暴力を色濃くするか、?ラブ・エロストーリーを色濃くするか、?SFファンタジーにするか、あるいは……、あれこれ思案中です。?については興味本位だけでなく、『記紀』の表向き意味は、「天皇の正統性や五穀豊穣」です。しかし、隠された意味は、「男女和合」です。
少子化対策として、こじつけで言っているのではありません。
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この1冊が日本を変える!
目次です。
第1章 年金の仕組みを知ろう!ー10年未満でもあきらめない。繰上げ・繰下げの損得
第2章 年金はいくらもらえる?ー「年金+給与」≦48万円 の壁を突破する
第3章 得か損か? ー年金生活者支援給付金、失業保険等と年金
第4章 知らないと損!ー最強の家計防衛は「住民税非課税」の優遇措置
第5章 「年金+給与」で住民税非課税限度額の壁を突破する
第6章 年金の疑問
]]>神武天皇(第1代)、崇神天皇(第10代)、応神天皇(第15代)、雄略天皇(第21代)、武烈天皇(第26代)、そして、別途、卑弥呼、衣通姫(そとおりひめ)、天之日矛、王仁(わに)、日本武尊、葛城襲津彦を書きました。1〜2週間後に、継体天皇(第27代)を書くつもりです。
その上で、古代史をまとめる予定です。まとめるにあたって、?権力闘争の暴力を色濃くするか、?ラブ・エロストーリーを色濃くするか、はたまた霊能力を色濃くすべきか、そんなことを考えています。
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拙著『世帯分離で家計を守る(改訂版)』(中央経済社刊、2400円+税)もご参照ください。
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現場が書いたものだから、『記紀』よりは信用できるかも。
たとえば、『伊勢国風土記』の「逸文」には、伊勢は出雲の支配下にあった。出雲の神が、石で城を築いた。「石城」(いしき)から、「伊勢」という名ができた。そんなことが書かれている。
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コンテストでは、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌が優勝した。
冬ごもり 春さり来れば
鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど
山を茂み 入りても取らず
草深み 取りても見ず
秋山の 木の葉を見ては
黄葉(もみ)つをば 取りてぞ偲(しの)ふ
青きをば 置きてぞ嘆く
そこし怜(たの)し 秋山我は
(万葉集 巻1−16)
小倉百人一首の内容別では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅(きりょ、旅のこと)が4首、恋が43首、雑が19首、雑秋が1首です。春と秋を比べれば、秋の圧倒的な勝です。
それにしても、今年の秋は、残暑が厳しい。
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「どうする家康」は事実無視のパレードですが、来年は、それを上回る事実無視のパレードになるのではないか、と思います。まあ、別段、かまいませんが。まさか、「これが事実だ!」なんて言いはる人は出てこないと思います。でも、フィクションと事実を混同する人は出てくるでしょう。司馬遼太郎の歴史小説に関しては、かなり多くの人が事実と信じてしまったようです。
そもそも、紫式部と藤原道長の恋はなかった。紫式部は美女ではなかったようで、顔に天然痘の後遺症があったのかも、という説すらあります。紫式部を後宮にとアドバイスしたのは、道長ではなく藤原詮子でないか、と推理しています。あれやこれや。
紫式部に少しは関連している私の『昔人の物語』は、「第34話、藤原道網母」(蜻蛉日記の作者)、「第44話、菅原孝標女」(更級日記の作者)、「第46話、赤染衛門」(真面目歌人)、「第71話、源頼光」(道長に仕えた武士)、「第75話、和泉式部」(スキャンダル歌人)、「第111話、小式部内侍」(和泉式部の娘)、「第112話、藤原明衡」(新猿楽記の作者)があります。
「医薬経済オンライン」「昔人」「人物名」で検索すれば、読めます。
それと、未発表ですが「源高明」(光源氏のモデル)、「藤原詮子」(道長の黒幕)、安倍清明(陰陽師)を予定しています。そして「紫式部」も発表する予定です。紫式部の原稿内容は『無名草子』をベースに書きました。『無名草子』は、鎌倉時代初頭に書かれた、日本初の文芸評論集です。
今月末に、医薬経済オンラインで発表になるのは、応神天皇(第15代)です。
ドラマや小説の世界ならば、事実と物語(フィクション、嘘話)がごちゃ混ぜになっても、かまいません。「あすこが事実無視だ」とおしゃべりするのも、楽しいものです。
しかし、現実世界では、犯罪がからんでいれば「冤罪」となります。政治世界では陰謀となります。嘘話がまかり通る政治では、結局は、不幸な結果になります。司馬遼太郎の歴史小説を事実と信じても害は少ない。でも、政治の場合、多くの人が嘘話を事実と信じると、とんでもない悲劇となります。政治家、政治好きな人の中には、「嘘話で支持者を増やすことは、良いことだ」と思っている人が、案外多いかもしれません。
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『新古今和歌集』の代表作が、「三夕(さんせき)の和歌」です。
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(2)数年前、トリチウムの分離は可能という文章を読んだ記憶があります。研究費をかけて、実験を繰り返し工夫を重ねた結果、「すぐに実用できない」ということなのか。政府は、海洋放出は数十年は続くと言っているから、「すぐに実用できなくても、いい」と思います。真剣に、研究費をかけて、やっているのかな?
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現代政治も嘘・ペテン話が本当のこととして流布されます。
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サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、「長崎の鐘」の歌詞です。
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
こころの罪を うちあけて
更けゆく夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
永井隆作詞、藤山一郎作曲の「新しき朝」
新しき 朝の光さしそむる 荒野(あれの)に響け 長崎の鐘
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『古事記』応神天皇の箇所の「秋山と春山の物語」
伊豆志大神には、娘がいました。名前を伊豆志袁登売神(いずし・をとめ・の・かみ)といいます。多くの男たちが彼女を娶ろうとしましたが、だれも結婚できませんでした。
そこに、二人の兄弟が出てきました。
兄の秋山之下氷壮夫(あきやま・の・したひ・おとこ)と
弟の春山之霞壮夫(はるやま・の・かすみ・おとこ)です。
兄が弟に言いました。
「私は、彼女を妻としたいが、断られてしまった。お前は彼女を妻にできるか?」
弟は、「たやすいことです」と答えました。
そこで兄は言いました。
「もし、お前が彼女を妻にできたなら、私は衣服を全部脱いで裸になってやる。身の丈の高さのカメいっぱいの酒をつくってやる。さらに、山海の食材をことごとく用意して御馳走してやる。」
弟(春山)は兄の言ったことを、そのまま母に話しました。それを聞いた母は、藤のツルを採ってきて、一晩で、衣・袴・下くつ・沓(くつ)を織り縫いました。さらに、弓矢もつくりました。そして、衣・袴などを着せて、弓矢を持たせ、女の家に行かせました。
弟が女の家に到着すると、衣服と弓矢の藤のつるから、いっぱいの藤の花が咲きました。
弟は藤の花が咲き誇る弓矢を、女の家の厠に置きました。
女が厠に来ると、綺麗な藤の花が咲いているので、不思議に思い、藤の花の弓矢を持って家に入りました。
弟も藤の花に覆われていましたので、なんなく、弓矢の藤の花の後から女の家に入りました。そして、すかさずセックスしました。そして、一人の子を産みました。
弟は兄に「私は伊豆志袁登売を獲得した。妻にした」と言いました。
兄は弟の結婚に憤り、約束していたこと、すなわち、裸になる、いっぱい酒をつくる、御馳走することを実行しませんでした。
弟は、そのことを母に言いました。
母は答えました。
「この世のことは、神に習わなくてはいけません。それなのに、青人草(民草)に習うとは。償いをさせねば」
母は兄を恨みました。
伊豆志河の竹を取ってきて、編み目が荒い籠(かご)をつくりました。その中に、竹の葉で包んだ塩をまぶした河の石を入れました。そして、呪文をかけました。
「この竹の葉が青いように、この竹の葉がしなびるように、青くなったり、しなびたようになれ。潮(塩)の満ち引きのように、元気になったり病気になったりしろ。この石が沈むように、沈み臥せよ」
呪文をかけた荒籠をかまどの上に置きました。
これによって、兄は8年間、干からび、しなびて、病気ばかりしました。
兄は泣いて母に許しを請いました。すると、たちまち呪は解けました。それで、元のようになりました。
これが、「神うれづく」という言葉の始めです。
※「神うれづく」とは、「神に誓った賭けの品物は、きちんとしなさい」という意味です。
]]>
万葉集歌人の額田王の歌です。
天智天皇が「春山の花の艶と、秋山の紅葉の色、いずれが良いか競わせよ」と命じた。コンテストの優勝者は、額田王です。その歌です。
冬ごもり 春さり来れば
鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど
山を茂み 入りても取らず
草深み 取りても見ず
秋山の 木の葉を見ては
黄葉(もみ)つをば 取りてぞ偲(しの)ふ
青きをば 置きてぞ嘆く
そこし怜(たの)し 秋山我は
(巻1−16)
(直訳)「冬ごもり」は春にかかる枕詞。春が来ると、鳴かなかった鳥もやってきて鳴き始める。咲かなかった花も咲くけれど、山は木が茂るので、人は花を手に取ることもできない。草が深いので取って見ることもできない。(しかし)秋山の木の葉を見ては、黄色に色づいたのを手に取って鑑賞する。まだ青い葉をそのままにし、紅葉するのを待ってため息をつく。そこが楽しい。秋山が良い、私は。
]]>私が書いた「本能寺の変」からみの文章を掲載しました。
昔人の物語(第47話)
明智光秀 …謀反の真実は?
太田哲二
(1)なぜか、人気が湧かない
船橋聖一の歴史小説『花の生涯』は、井伊直弼を開国を実現した優れた時代認識の偉人として描かれている。文学的価値には無関心ですが、この小説は戦後の占領期に書かれた。そのことを知った時、「なるほど」と納得した。
戦後は、それまでタブーだった「明治〜大戦」を批判する自由がもたらされた。戦前までは、もっぱら勤王の志士が正義で、佐幕派は悪人である。しかし戦後は、佐幕開国派を賛美しても叱られないし、かつ占領時代においては日米親善友好は絶対要請であった。だから、井伊直弼を偉人として見直すことは、時代の要請に合致する。
白黒〇×方式で割り切るならば、「明治〜大戦」を批判すれば反射的に「江戸時代は案外良い時代」となる。だから、徳川家康は戦前ではもっぱら「たぬき親父」のマイナスイメージ一辺倒だったが、戦後は山岡宗八の『徳川家康』全28巻がベストセラーになるなど家康礼賛の空気が強くなった。そうなると、その反射効果で、戦前では豊臣秀吉は圧倒的人気者だったが、戦後は、天下人までは善であるが晩年は「常軌を逸した朝鮮侵略者」とする空気が強くなった。秀吉を罵倒すれば、必然的に明智光秀は立派な人物となるはずである。でも、光秀人気はパッとしない。
なぜ、光秀人気が湧かないのか?
それは、「なぜ、明智光秀は謀反を起こしたのか?」が、さっぱり判明しないからであろう。昔から、諸説紛々あれこれの推理がまかり通っている。確実な証拠がないので、なんと推理してもかまわないが…。私の推理は、後に述べます。
(2)前半生は不明
明智光秀(?〜1582)の前半生は、ほとんど不明である。
生まれた年もはっきりしない。有力説は、1528年(享年55歳)であるが、1526年説、1516年説もある。
父の名も不明確である。最大公約数的には、清和源氏の土岐氏の支流である明智氏の生まれ、その実態は父の名前も伝わらないほど身分が低い土岐氏支流であった。「明智城の若様」なんて話もあるが、後世のフィクションである。
美濃国は土岐氏一族が支配していたが、斎藤道三(1494?〜1556)が国主となった。油商人出身「マムシの道三」の「国盗り」物語である。ただし、これは、江戸時代の史書をネタにした話で、司馬遼太郎らが流行させた。事実は、「道三の父(僧侶出身)」と「道三」の親子2代による「国盗り」であった。
道三「国盗り」物語は、さておいて、光秀は斎藤道三に仕えていた。しかし、道三と嫡男・義龍の父子が争う「長良川の戦い」(1556年)にて、道三は討ち死、明智一族も散り散りバラバラとなる。
光秀は、どこで何をしていたやら…。後世の『明智軍記』では、諸国を遍歴し、兵学や諸国の実情を学んだ、としている。諸国遍歴を経て、越前の朝倉氏に仕えたとされているが、怪しい話である。正規の家臣ではなく、非正規の居候的家臣であったかも知れない。要するに、光秀の前半生のエピソードはすべて後世の創作物語であると思ったほうがよい。めぼしいお話としては、次のようなものがある。
➀光秀の婚礼エピソード。婚礼直前に結婚相手のひろ子(熙子)が天然痘に感染し、美貌があばた顔になってしまった。そこで、ひろ子の父は、ひろ子の妹を身代わりにしたが、光秀は見破って、「女の価値は容姿ではない。心の美しさだ」と言って、妹を送り返し、あばた顔のひろ子を妻にした。
ただし、光秀の妻ひろ子は、天下一の美女で、織田信長が安土城でチョッカイをしたのを拒否したことから、信長が光秀をイジメ始めて、光秀謀反の原因になった…なんて話もあるから、ひろ子の容姿についても分からない。
?「妻の鏡」エピソード。流浪の貧乏生活でも、つきあい上、仲間を家に招待してご馳走せねばならないことがある。光秀の妻は、完全金欠だったので、黒髪を密かに売って、夫の面目を維持した。
芭蕉は奥の細道の旅を終えて伊勢へ行く途中、大津の弟子・又玄(ゆうげん)宅に泊まった。この頃、又玄は窮乏生活だったが、又玄夫婦は暖かくもてなした。芭蕉は感激し、「月さびよ 明智が妻の 咄しせむ」と詠んだ。
なお、ひろ子の前に、最初の妻(正室)がいたが、数年で病死した。ひろ子は、後妻(継室)である。側室がいたかどうかは不明である。
?鉄砲の名人エピソード。越前朝倉の家臣であった時、主君・朝倉義景(よしかげ1533〜73)の前で百発百中の腕前を披露した。ただし、前述したように、光秀が朝倉氏に正規家臣として仕えたかどうかは疑わしい。
?兵学論争エピソード。これも朝倉義景の前で、軍師黒坂民部と兵学論争をし、光秀は圧倒的な知識を披露する。恥をかいた黒部民部のざん言のため光秀は朝倉家での居心地が悪くなり朝倉家を去った。
なんにしても、こんなエピソードがあることは、光秀は超真面目で勉強家であった証明であろう。
(3)二君に仕える
1565年、永禄の変が勃発した。三好三人衆、松永久秀(弾正)の軍勢約1万が、足利幕府の本拠である二条御所を襲撃した。二条御所を守る幕府軍数百人は全滅し、第13代将軍足利義輝(よしてる、1536〜65)も殺害された。その後、京では、三好三人衆と松永久秀の抗争が展開されたり、第14代将軍に足利義栄(よしひで、1538〜1568、将軍在職1568年2月〜9月)が就任したり、下克上の混乱状態が継続した。
さて、永禄の変の勃発直後、足利義輝の弟の足利義昭(よしあき、1537〜97)は、捕縛されて奈良の興福寺で監禁されたが、危機一髪で脱出し、各地を流浪しながらも、幕府再興そして、全国の大名に出兵上洛と自身の将軍擁立を促した。足利義昭の流浪は、困窮の中、伊賀、近江、若狭、そして越前の朝倉義景のもとへ身を寄せた(1566年9月)。
この頃光秀は、何らか縁によって足利義昭との接触に成功し、家臣となった。足利義昭の家臣に細川幽斎(藤孝、1534〜1610)がいた。光秀と幽斎は、肝胆相照らす仲となった。二人は、天下の情勢、幕府再興を熱く語り合った。その結論は、「織田信長に頼る以外に道はなし」となった。二人の予想どおり、1567年8月、織田信長は美濃の斎藤氏を美濃稲葉城にて打ち破り、上洛の体制が整った。すかさず、光秀は足利義昭の使者として、交渉にあたる。信長の正室は斎藤道三の娘・濃姫で、光秀となんらかの親類関係にあり、その縁を頼ったようだ。
ついでに一言。光秀と濃姫はなんらかの親類関係であるらしい……ここから、たくましい想像力を発揮して、光秀と濃姫は幼なじみの初恋の相思相愛の関係で、光秀謀反の原因はここにある、なんてお話もある。まあ、単なる、楽しいお話であります。
翌年の1568年、その7月に足利義昭が越前から美濃へ到着、信長はこれを大歓迎する。同年、9月信長は足利義昭を奉じて入洛、10月に義照は待望の将軍となる。
さて、光秀の立場のことであるが、1568年9月の足利義昭の入洛の時には、光秀は信長の家臣になっている。「義昭の家臣」を辞めて「信長の家臣」になってのではない。「義昭の家臣」であると同時に「信長の家臣」になったのだ。つまり、光秀は同時に二君に仕える身になったのだ。徳川時代では許されないことだが、当時は別段不思議なことではないようだ。
ここで復習。1566年9月に足利義昭が越前朝倉に身をよせた。そこで、光秀は義昭の家臣となり、幽斎と二人で、幕府再興(義昭の将軍実現)企画を練り上げた。それから、2年1か月後の1568年10月に、企画は成就した。光秀は、ここぞとばかり頑張った。ある時は幕臣(義昭の家臣)として、ある時は信長の家臣として、京の行政事務に手腕をふるい、また、信長の命で各地を転戦した。
1571年9月の比叡山焼き討ちで、光秀は中心的な役割をはたし、その功によって近江国滋賀群の内5万石を与えられ、坂本城(大津市)を築城する。
その頃、信長の譜代の重臣である柴田勝家や佐久間信盛ですら大名になっていない。秀吉はまだ突撃隊長の身で、秀吉が近江長浜城主の大名になったのは1573年であるから、光秀は大抜擢の特別出世である。
なぜ、特別出世ができたのか?
おそらく「二君に仕える」という立場が答であろう。
代表的な実績としては、1570年正月の『義昭・信長条書』がある。これは信長が義昭の行動を五ヶ条にわたって規制したものである。義昭は信長に無断で諸国へ命令するな、義昭は恩賞として領地を勝手に与えるな、天下のことは信長が処分する……要するに、義昭を信長の傀儡将軍に確定する契約書である。そして、この文書の保証人が日乗上人と光秀の二人である。光秀は、「二君に仕える」立場だから、二君の等距離的立場として保証人になっているのである。
余談ながら、日乗上人(?〜1577)について一言。妖僧・政僧で、信長の面前でのフロイスと宗教論争をしたことでも有名。
光秀は幕臣(義昭の家臣)の実力者に出世していたので、幕臣の大半とコネがあった。実際のところ、1573年7月に足利幕府が滅亡すると、旧幕臣の大半は光秀の家臣として再雇用された。そんな光秀は信長に極めて忠実である。光秀と幽斎は二人で、嫌がる義昭を懸命に説得して『義昭・信長条書』を承諾させた。「二君に仕える」光秀は、信長にとって、まことに重宝な存在であった。
また、光秀は武将としての活躍も、織田の譜代の重臣や秀吉に負けていなかった。たとえば、1570年、信長が初めて越前朝倉を攻めた時、浅井長政の離反で大ピンチに陥った。総撤退では軍団の殿(しんがり)が一番危険な役目である。秀吉が自ら買って出て引き受けたという有名な「越前金崎城の殿」のことであるが、どうやら、殿軍は池田勝正(摂津の大名)の兵3000が主力で、秀吉とともに光秀も残っていたのである。後世の人々が秀吉ヨイショで秀吉一人の軍功に脚色した、というのが真相らしい。
とにかく、光秀は、幕府への人脈ノウハウと武将としての武功によって、織田陣営の中で、いち早く大名に取り立てられた。
(4)丹波攻略で近畿軍区司令官
物語の中には、信長の比叡山焼き討ち(1571年9月)に際して、光秀はこれを阻止するために奔走したとするものがあるが、これは後世の人々が「教養人の光秀がそんな暴挙に積極的であるはずがない」という先入観でつくられた伝説である。さらに、この伝説は、光秀は信長の残虐性を認識し、謀反への一里塚になったとする。根拠のない創作物語に過ぎない。
光秀は、いわば合理主義者で「仏の嘘は方便、武士の嘘は兵法」という言葉が残っている。延暦寺が朝倉・浅井の事実上同盟軍になってしまったから、合理主義者の光秀には躊躇などありえず、比叡山討伐軍の主力部隊は光秀軍であった。そして、前述したように、その武功によって、近江国滋賀郡5万石の大名となり坂本城(大津市)を築城する。坂本城は延暦寺を監視する意味もあった。
信長の天下布武は着々と進行していく。
ここで「天下布武」の四文字熟語について一言。「武」の字は、「戈(ほこ)」と「止」から成り立ち、本来の意味は、武器使用禁止、ということである。したがって、「天下布武」も平和な世の中をつくる、という意味があるようだ。でも、結局は「平和実現のために積極的に武器使用」ということになってしまった。
1573年3月、足利義昭は織田信長討伐を決定。合理主義者の光秀は、迷うことなく義昭と縁を切る。
同年7月、足利幕府滅亡。
同年8月、朝倉・浅井の滅亡。
1575年5月、信長軍、甲斐の武田勝頼を三河の長篠の戦いで撃破。なお、この合戦には織田の有力諸将は総出で参陣したが、光秀は近畿守備についていた。この時点では、本願寺も健在、毛利の脅威も大きかった。不安定な近畿の留守を任せることは、信長は光秀を信頼しているということである。
同年6月、光秀は丹波国攻略の総責任者になる。
それまで、光秀ら織田陣営の武将達は、信長から直接命令される部隊長みたいなものであった。ところが、丹波国攻略は、全面的に指揮命令権が信長から委任されたのだ。つまり、「丹波方面軍司令官」になったのだ。
その翌月には、柴田勝家が「北陸方面軍区司令官」に任命された。秀吉が「中国方面軍区司令官」になったのは約2年後である。
光秀の丹波平定は1579年8月に完了する。丹波国は現代感覚からすると僻地であるが、当時は京の隣接地域であるから重要地帯である。また、当時は海岸地方よりも内陸地方の方が発展していた。
この丹波攻略の中に、光秀謀反の原因があるとする有名な「光秀母殺し説」がある。
八上城に籠城する波多野兄弟は頑強に抵抗した。光秀は兄弟の命と領土保全を約束して投降を実現させた。その際、担保として自分の母親を人質として八上城に預けた。光秀が波多野兄弟を安土城へ護送したら、信長は光秀が取り交わした約束を無視して波多野兄弟を磔にしてしまった。それを知った八上城側は母親を光秀が見守る中、磔にした。はからずも光秀は「母殺し」となり、信長を深く恨んだ、というお話である。
しかし、光秀は八上城を四重の柵と堀で完璧に包囲して兵糧攻めを展開していて、城中は餓死者続出の状況であった。わざわざ母親を人質に差し出す必要性はゼロで、まったくの創作である。
その創作話はともかくとして、計算すると光秀は丹波一国を平定するのに4年2ケ月かかっている。中小の豪族・領主しかいない丹波国を攻略するのに、少々時間がかかり過ぎではないか、と思われるかもしれない。しかし、光秀は丹波攻略だけに専念するわけにはいかなかったのだ。丹波を攻略しながら、北陸方面へ参戦(1575年8月)、石山本願寺攻め(76年4〜5月)、紀伊雑賀党攻撃(77年2〜6月)、大和の松永弾正の滅亡(77年10月)、播磨攻撃中の秀吉への援軍(78年4〜6月)、摂津の荒木村重の謀反鎮圧(78年11〜12月)……この頃の光秀の動きは、あまりにも東奔西走なので、なんだかよく判明できないほどである。光秀は、頑張りに頑張っていたのである。
かくして、1579年8月に丹波国を平定した。さらに、細川幽斎と協力して丹後国も平定した。信長は大いに喜んで、1580年8月、光秀は丹波一国(29万石)を与えた。光秀は近江の5万石と合わせ34万石となった。
この時期の織田軍諸将のランクは、徳川家康は別格として、第1ランクに譜代の重臣である佐久間信盛と柴田勝家、第2ランクに光秀と秀吉がいた。すでに、丹羽長秀、滝川一益を完全に追い抜いていた。光秀と秀吉を比べれば、光秀の方が確実にリードしていた。
光秀が丹波一国を拝領した数日後、織田軍事会社の大人事異動が発令された。佐久間信盛が、無能の役立たずとして、高野山へ追放されたのだ。その時の信長の『佐久間信盛折檻状』には、軍功顕著な武将として、光秀、秀吉、勝家の三人をあげ、特に光秀の活躍を「丹波での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛している。
そして、佐久間信盛が管理していた近畿一帯の武将、大和の筒井順慶、摂津の池田恒興、高山右近らが、ごっそり光秀の配下になった。光秀は、「近畿方面軍区司令官」に昇格したのである。
誰が考えても、北陸軍区よりも、近畿軍区の方が格上である。つまり、光秀は織田軍事会社のナンバー2になった。ただし、ナンバー1は絶対権力者である。
1581年6月、光秀は家法『明智家法』を定め、その後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召し出し、その上莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」と信長への大きな感謝を記している。ひたすら黙々と頑張り頑張った超真面目人間の言葉である。これからも、信長様のため頑張るぞ〜!
(5)仕事がない!
超真面目人間の光秀は、信長様のため頑張るぞ〜、と決意を新たにしたのだが、ふと思うと、活躍できる仕事がないのでは…。振り返れば、1568年9月の足利義昭を奉じての上洛以後、14年間、日々、生死をかけた戦いの連続だった。自分が命がけで頑張らねばならない仕事場は次々にあった。それが、絶対君主に次ぐナンバー2に上りつめたら、大舞台の仕事場がない。
近畿軍区は平定されてしまっているから、光秀の出番がない。
秀吉はすでに中国の毛利攻めを開始しており、その応援で中国方面へ参陣しても秀吉の手柄になるだけ。光秀の武功になるわけではない。
甲斐の武田勝頼討伐は、1582年2月に急遽開始されたが、これも同じことで、滝川一益や徳川家康の手柄になるだけ。実際、光秀は「京・近畿を守る」役割で武田攻めに参陣していない。同年3月には武田氏消滅。
超真面目人間(=仕事中毒人間)にとって、仕事がないと不安になる。仕事をしないと、ナンバー2であっても、佐久間信盛のように追放されてしまうかも…。
新規大事業はないか。四国がある。
もともと信長と土佐・長宗我部とのパイプ役は光秀が担当していた。しかし、1582年2〜3月頃、信長と長宗我部の仲は決裂した。
1582年5月7日、四国征伐の人事が発表された。大将には織田信孝(信長の3男)、副将には織田信澄(信長の弟の子、妻は光秀の娘)と丹羽長秀(織田譜代の家臣で、柴田勝家に次ぐ地位)であり、先鋒には三好康長であった。
この人事に光秀はショックを受けた。世間で言う「織田5大軍団」が確定されたのだ。近畿軍区が明智光秀、北陸軍区が柴田勝家、中国軍区が羽柴(豊臣)秀吉、関東軍区が滝川一益、そして、四国軍区が丹羽長秀となったのだ。
光秀の近畿軍区以外は平定されていないから、仕事がいっぱいある。三好康長は秀吉との関係が深い。織田信澄は光秀の立場を考えての人事だろうが、飾り物にすぎない。光秀は「遊軍」になったのだ。光秀は「窓際族」の悲哀を感じた。
むろん、光秀には近畿で朝廷、寺社、外人、堺商人との折衝など、いわば内政の仕事があるのだが、それらは諸将からは「お遊び」に準ずるものとみなされる。「武功」がないと、第2の佐久間信盛になってしまうかも…
子のない秀吉は信長の四男・秀勝を養子にしている。勝家は織田家の重臣である。ナンバー2が、ナンバー3に下がっても、いやナンバー4でも5に下がってもいい。武功をあげ続けていれば、ランクが若干低下しても明智家は安泰だろう。しかし、武功をあげる仕事場がない。
信長のイジメにあった時も、「自分だけじゃない。家康は、信長の邪推で我が子を殺さねばならなかた。勝家だって秀吉だって、上様からひどく叱られる。しかし黙々と、実績さえあげていれば上様は認めてくれる」と粉骨砕身、頑張ってきた。
信長の光秀イジメの逸話は非常に多い。
➀信長と重臣たちの宴会途中、光秀が厠に立ったら信長は激怒して槍で脅した。酒が弱いのに無理やり飲ませた。宴会中の乱暴・喧嘩は、信長ならずとも、よくある出来事である。それと謀反を結びつけるのは、短絡すぎるのではないか。
?武田勝頼を滅亡させた直後、諏訪法華寺の本陣で、光秀も近畿からお祝い言上に駆け付けた。「こんなに目出度いことはない。われらも骨を折ったかいがあった」と祝ったら、信長は「おまえがどこで骨を折ったのか」とキレてしまい、光秀の頭を欄干に打ち据えた。後世(40年後)の創作話のようだ。
?稲葉一鉄は斎藤道三の家臣であったが信長に寝返った。稲葉一鉄の家臣に斎藤利三がいた。二人は喧嘩別れして、斎藤利三は親戚の明智光秀を頼り光秀の家臣となった。稲葉が信長に苦情を言ったら、信長は光秀に「返してやれ」と指示した。光秀は「家臣は宝」と言って拒否した。信長は激怒して光秀を投げ飛ばした。その後、斎藤利三は明智家の家老になった。
信長は、癇癪持ち、すぐキレるタイプだったのだろう。光秀一人がイジメられたのではない。徳川家康へのイジメなんかは中途半端じゃない。みんな忍耐している。仕事さえしていれば、武功さえあげていれば…。
(6)謀反の真実
1582年5月7日、四国征伐の人事発表。
同年5月14日、光秀は安土城へ来た家康の接待役を命じられる。光秀は、この接待役でも徹底的にイジメられたとする創作話もある。
同年5月17日、秀吉より信長へ「援軍頼む」の知らせが到着した。西国最大の大名・毛利輝元が毛利本軍を率いてきたのだ。信長は、一挙に雌雄を決するべく、自らを総大将として出陣を表明し、光秀ら諸将に出陣を命じた。
この時、光秀は「丹波国及び近江坂本」から「出雲・岩見二国」への国替えを命じられたとする説もある。出雲・岩見は毛利の領地である。この国替えが事実なら謀反原因の本命だが、これも創作話である。
光秀は出陣準備のため、その日のうちに近江坂本城に帰った。光秀の本拠地はすでに丹波国亀山城に移っており、坂本城は支城となっている。
超真面目仕事中毒人間は、ストレス解消方法を知らない。勝家なら大酒飲んで部下に八つ当たりして気分を晴らす。秀吉なら美女を侍らせてストレス解消である。光秀の最愛の妻・ひろ子は1576年に病死(42歳)している。妻と語り合うこともできない。
横道に話がそれるが、ストレス解消法について。放置していると「うつ病」になってしまうので。某政治学者は、上役は部下を叱ってストレス解消。部下は会社でのストレスを家でカミさんにぶつける。カミさんは子供にあたる。子供は猫を蹴とばす。弱い者へ、弱い者へとストレスが移動する、これが日本社会のゆがみで、あれやこれや…とか書いてあった。そうならないための処方箋です。?運動・スポーツ(筋トレ、ランニング、ダンスなど)をする。?映画館で「泣ける映画」を見て、遠慮なく涙を流す。悲しい映画でも感動的な映画でもOKです。?茶碗を壊す、紙を破るなど、壊しても大丈夫なものを破壊する。案外、新しい商売になるかも。?心を許す友人、できれば朗らかな友人とおしゃべりする。?とにかく大声で叫ぶ。穴を掘って穴に向かって叫ぶ。「王様の耳はロバの耳」方式。?風呂にゆったり入る。ローマ帝国はこれで市民のストレスを解消させた。?手でも耳でも自分のストレス解消の「つぼ」を見つける。その他いろいろ。
超真面目仕事中毒人間の光秀はストレス解消法を知らなかった。合理主義者だから論理的に考えてしまい、ドツボにはまってしまった。
このままでは、佐久間信盛のように「没落」しかない。今なら、天井をぶち破ることができるかも…
勝家は北陸で上杉と対峙して動けない。
秀吉も中国で毛利と対峙して動けない。
滝川一益は遠くの関東上州にいる。
家康は少人数で堺で遊んでいる。
信長の嫡子・織田信忠は尾張・美濃の120万石の大々名だが、軍勢は尾張・美濃に残したまま、少人数で京都妙覚寺に滞在している。
信長の二男・織田信雄は領国の伊勢にいるが、自衛程度の兵力しかない。
丹羽長秀と三男・織田信孝は四国征伐の準備で大阪にいる。渡海は6月1〜2日。
織田五大軍団長、信長の三人の息子、家康、その中で兵力を京に集中できるのは自分しかいない。光秀の超真面目合理的思考は、「没落」と「謀反」の二者択一のドツボにはまってしまったのだ。
5月26日、丹波の亀山城に入る。
5月27日、亀山城の守護神である愛宕山で籤を引く。迷い迷って何回も引いた。合理主義者も最後の決断は籤に頼った。
5月28日、連歌師・里村紹巴らと連歌を詠む。光秀の発句は
時は今あめが下しる五月哉
である。「時」は「土岐」と同音で、天下をとる決意を秘めていると解釈されている。重大決意のため放心状態の光秀は、笹ちまきを笹といっしょに食べたり、突然独り言を口走った。
6月1日午後6時、亀山城にて出陣の準備完了。その夜、重臣の明智秀満、斎藤利三ら数人に打ち明ける。午後10時出発。
6月2日午前1時、老ノ坂で夜食休息。右へ下れば備中への道であるが、左へ下った。桂川を渡り終えると、鉄砲の火縄を点火させ、「敵は本能寺にあり」と号令。午後4時、本能寺を奇襲、信長殺害に成功。次いで、信長の嫡子・信忠も二条城にて自決。光秀の謀反は成功した。
しかし、周知のごとく秀吉の「中国大返し」によって、光秀は「三日天下」に終わる。
謀反の原因を、㋐イジメ説、㋑天下取りの野心説、㋒信長の朝廷消滅計画を阻止するため、㋓足利幕府復活計画、㋔信長の家康暗殺計画を阻止するため……などなどがある。あるいは、光秀単独犯ではなく、秀吉との共謀説、家康との共謀説、長宗我部との共謀説、足利義昭との共謀説などもある。
光秀謀反の謎に関しては、数十の謎解きがあり、真実はタイムマシンが完成しないと分かりません。
なお、光秀の刎頸の友、細川幽斎ですら光秀からの再三の要請にもかかわらず、光秀に従わなかった。光秀一人が悩み決行したから、誰も味方しなかった。
蛇足であるが、光秀は山崎の合戦(6月13日)で破れ、その深夜、落ち武者狩りの百姓の竹槍で深手をおい、自害した。しかし、死んではおらず、徳川家康のブレーンである天海僧正(?〜1643)とは明智光秀であるというフィクションが明治時代につくられた。面白過ぎるので、かなり有名なお話となっている。
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合成の誤謬(ごびゅう)
経済学でよく使用される用語です。
個人個人は合理的に行動します。
でも、それが全体になってしまうと、悪い結果になってしまう。
典型的な用例は、
個人個人は、無駄を廃し節約して老後のために貯蓄に励む。それが、多数に普及すると、消費が減少し不況となる。せっかくの貯蓄も価値が低下してしまう。
こうした例以外にも、組織論でもあります。
大組織の場合です。自分のポジションの成績を上げるため頑張ります。優秀な人材ばかりですと、どのポジションも成績が上がります。しかし、組織全体では利益が下がることが発生します。製品開発部は研究費をかけて高品質の製品を開発します。販売部は価格を下げて大量に販売します。高いコストの製品を安く売るので、利益が少なくなります。
民主主義でも発生しがちです。
丁寧な話し合い・対話が大切です。その結果、長時間が費やされても結論がでない。「小田原評定」に陥ることが、しばしばあります。
様々な場面で「合成の誤謬」が発生します。
「合成の誤謬」を回避する方法はないか。理屈では、「合成の誤謬」をあらかじめ予測し、その対応策を考えておくことです。あくまでも、理屈なので、上手くいかないケースもあり、「混乱」「破綻」になることもあります。
個人個人の合理的かつ正しい行動が、全体として正しいことに結びつかないことがある。
世の中は、難しい。
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でも、あまり認識されていない。
{20〜70歳}2人以上世帯の貯蓄額(平均・中央値)
|
平均 |
中央値 |
20歳代 |
214万円 |
44万円 |
30歳代 |
526万円 |
200万円 |
40歳代 |
825万円 |
250万円 |
50歳代 |
1253万円 |
350万円 |
60歳代 |
1819万円 |
700万円 |
70歳代 |
1905万円 |
800万円 |
「中央値」とは、少ない順に並べて、全体の真ん中にくる金額。
「平均」は、巨額の貯蓄を持っている少数の人がいると、「平均」が高くなってしまう。
したがって、「平均」よりも「中央値」の方が、実態を反映している。
「貯金を増やそう!」は、不景気継続と同じ
老後のために「貯蓄額2000万円」が必要と計算されています。
どの世代でも、中央値が2000万円に達していません。政府・金融機関は、「投資を! iDeCoを! NISAを! 投資信託を!」の大合唱です。でも、これは、「お金を使わず、貯金をしましょう」と同じことです。「消費の減少」は不景気継続です。
「年金+給与」しか道はない。
取るべき方策は、「年金+給与」の道です。
好景気になっても、年金の実質的価値は減少します。年金だけで悠悠自適の高齢者は減少します。
貯蓄2000万円もない。
そうなれば、「年金+給与」の道しかない。
偶然にも、「働き手不足」の時代です。
これからの時代、高齢者が働きやすい環境を整えることが、必須です。
日本の運命は、そこに係っている。
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